死に部屋


コツ、コツ、コツ


耳の奥まで響く足音が煩わしい。薄い鼓膜を破り、脳髄に直接突き刺さるようなその音。

『頭に釘を打ち込まれるようだ』いつか聞いた、そんなクレームを思い出す。

はっきり言ってその通りだと思うが、幾ら気を付けようと、鳴ってしまうのだから仕方ない。

いっそ止めてしまえたらと思う。特に今は。けれど、この足を止めるわけには行かないのだ。今だからこそ。

止めてしまえば、二度と向き合えなくなりそうだから。

あの部屋に棲む、暗い闇に。


深夜、夜が染み渡る病棟の廊下を、私はひとり歩いていた。



生と死が隣り合う場所。大なり小なり、病院というのはそういう性質を持っている。

だからこそというべきか、病院には怪談話というものに事欠かない。


その中でもよく囁かれるのが、所謂『人が死ぬ部屋』の話だろう。


その部屋に入った人は死ぬ、簡単に言えばそういう内容だが、実際のところ、この部屋は実在する。

とはいえ、それは幽霊や呪いとは関係があるわけではない。

その目的と場所によって、部屋は大きく二つに分けられる。


一つは、容態が悪化した、もしくはすることが予測される患者を置く為の、観察がしやすいスタッフステーション近くの部屋。

もう一つは、近い将来に確実な死が予測される患者を、静かな環境で看取る為の、少し奥まった場所にある部屋。


この二種類を兼ねた部屋も勿論存在するが、どちらも利用するのは状態の良くない患者。言ってしまえば『死にやすい』患者だ。だから、必然的に人の死が多い部屋ということになる。

患者の状態と業務の都合から生まれた実在する部屋、それが怪談として語られる『死に部屋』の真相だ。


少なくとも、私はそう信じていた。



南北に長く延びた病棟の北端、突き当たりの角を右に曲がった先にある静かな個室。

216号室と扉に書かれたその部屋が、私の属する病棟の『死に部屋』だった。

廊下と扉に遮られ、外の音も靄がかかったように曖昧になるその部屋は、最期の時を静かに待つ為の場所。


今から約二年前、そこに入院していた女性を、仮に落合さんと呼ぶ。

八十近くになる落合さんは初め、肺炎の疑いで搬送されてきた。が、入院の為と撮ってみた画像には、あってはいけない白い影が。

その時には既に胃癌が進行し、手の施し様の無い状態だった。

告知の時、号泣する長男と長女に比べ、本人はあっさりとした様子で受け止めていた姿を覚えている。

そのまま入院となった彼女だが、それでも危篤というわけではなかった。

ならば他の病室に入れるべきだったのだろうが、偶々空いていたのが216号室しかなかったのである。

肺炎とはいえ、発熱と軽度の息苦しさがある程度。この分なら自宅にも戻れるだろうと、誰もがそう思っていた。



「子供達を呼んでくれないかしら? 」


検温をしていた私に落合さんがそう言ったのは、入院して三日後の事だった。

ベッドに横たわる彼女が私を見上げる。手作りだという花柄のシュシュで纏めた長い髪が、その動きと共に肩のところで僅かに揺れた。


「あら、何か必要な物でもありますか? 」

「いいえ、そろそろ帰るから、迎えに来てほしいのよ」


確かに退院できそうとはいえ、随分と気が早いな。私は苦笑いしつつ、彼女に目線を合わせる。


「まだ肺炎が残ってますから、また退院するとなったら迎えに来て貰いましょう」

「でもねぇ、それじゃあ遅いのよね……あの人も待たせてるから」


そう言って、彼女は部屋の角に目をやる。私も釣られる様に視線を向けた。この時、検温に来ていたのは私ひとりで、当然そこには誰もいない。

私は振り返り、少し乱れていた掛け布団へと手を伸ばした。


「あの人って旦那さんですか? なら、まだお迎えには早いよって言っておいてくださいよ」


落合さんの夫は、この五年も前に病でこの世を去っている。『あの人』という言葉のニュアンスから、私は亡くなった旦那の幻覚でも見えているのかと思っていた。


「いいえ、夫じゃないわ。ほらそこの、白いひげが立派な男の人よ」


その言葉に、私の手が止まる。思い出したのだ、彼女の前にこの部屋にいた人物を


南さんというその初老の男性は、同じく胃癌の末期だった。

それでも容態は落ち着いていたのだが、当然の急変でこの世を去っている。

元々の部屋を空けるために、216号室へと移動してきた数日後の事だった。よく覚えている。


『帰ったら好物のカツ丼を食べるんだ』


そう言って笑う口元の、たっぷりと蓄えられた白いひげも。


「その人は、とても笑顔が素敵な人じゃないですか? 」


本当なら、そういう質問はしない方が良いのだろう。けれど、思わず私はそう訪ねていた。

彼女に見えている人が南さんであるとは限らないし、霊や魂というものを信じていたわけではない。

それでも、触れたかったのかもしれない。肉体という縛りから解放されたあの人の、快活な笑顔に。


「笑顔? 怖い顔をなさってるようだけど……」


落合さんが急変し、息を引き取ったのは、その日の夜だった。



病院はベッドの回転率を維持することが責務である。

それは私の働く病院も同じく、落合さんが物言わぬ退院をした三日後にはもう、216号室のベッドは埋まっていた。

川瀬さんはまだ若い男性で、三十代に入って間もないくらいだったかと思う。

車椅子にのってやってきたその姿は、健康な成人男性そのもので。けれど右足に巻かれた太いギプスが、彼もまた患者であることを示していた。

元々入院していた病棟のベッドが破損した為の、修理が終わるまでの繋ぎ。それが、内科的には問題の無い彼がここへ来た理由だった。



「さっき、川瀬さんから変なこと言われたんです」


彼の担当だった後輩から声をかけられたのは、終業が間近に迫った夕方。歩みの遅い時計の針を焦れったく感じていた時だった。


「変なことって? 」

「それが……見えるって、言うんです」


日勤最後の検温を行っていた後輩に、彼は突然こう言ったという。


『お婆ちゃんの見守りしながら部屋回るのって大変でしょ』


確かに、夕方になると落ち着かなくなる高齢者は多い。人手が少なかったりと、どうしてもという時は、彼らと共に部屋を回る事があった。

けれど、後輩は一人で部屋を訪れていたという。私自身、一人で検温に回るその姿を見てもいた。


『今日は誰も連れてきていませんけど……? 』

『でもさ、そこにいるじゃん。お婆ちゃん』


後輩は背後をみたが、やはりそこには誰もいない。

誰かが間違って入ってきたのだろうか、扉の音はしなかったのだが。

そこで、後で確認してみようと、どんな人なのか訪ねてみたという。


「そしたら、髪の長い人だって……花柄のシュシュで纏めた、長い髪の……」


その時、私が連想したのは、手作りと言っていた彼女のシュシュだ。

長い髪と共に揺れていた、落合さんのシュシュ。


「誰か落合さんの事話したんじゃない? それで気にしすぎて何かと見間違えたとか」

「けど、亡くなった方の話なんてわざわざします? 病室でのリハビリが中心だった落合さんとなんて、リハビリ室ですれ違うなんて事も無かったでしょうし」


確かに、後輩の言う通りだった。

リハビリでもないならば、あの二人に接点なんてあり得ない状況であったし、わざわざ亡くなった患者の話をする理由もない。念のためその場にいた他のスタッフにも聞いてはみたが、全員答えは同じだった。


「前々から思ってたんですけど、あそこに入った方って、意思の疎通が取れない方でも何となく壁の隅気にしてません? まさか幽霊でもみえてるんじゃ……」

「そんなばかな……」


幽霊なんてものが実際にいるわけがない。スタッフにも見たという人は多いが、病院という場所が持つ独特の雰囲気が見せた錯覚か何かに決まってる。

後輩を軽く嗜めるも、私自身どこか腑に落ちないものを感じていた。


……ならば、どうして花柄のシュシュなんて、彼はピンポイントに言い当てられたのだろうか、と。


その時、時計の針が終業時刻を知らせてきた。患者達もそろそろ食事の時間である。わざわざ今から聞きに行くことも無いだろう。

私は翌日も日勤だった。ならばその時に聞けば良いと、不安そうな後輩の背を押して、そのまま病棟を後にした。


そして翌日、216号室に川瀬さんの姿はなかった。



そんなばかな……コピーされた死亡診断書を手に、私はその言葉を繰り返していた。


川瀬さんは夜間に心停止、呼吸停止の状態で発見された。蘇生を試みられたそうだが、その甲斐無く息を引き取ったという。

家族の希望で解剖は行われず、診断は、急性心不全ということになった。

これが普段、あの部屋に入る患者であれば、何ら疑問を挟みはしないだろう。いつ亡くなっても可笑しくない人を看取る部屋、216号室とはそもそもそういう場所なのだから。

しかし、川瀬さんは違う。彼はたまたま空いていた部屋に入っただけでしかない。体力もあり、入院時に行う心電図検査でも、異常の徴候など無かったのだ。


「やっぱりあの部屋って何かあるんでしょうか……」


後から来た後輩が、声を潜めてそう言った。


「そんな……そんなばかな」


そして、次に216号室が埋まったのは、その二日後だった。



数日後、私は深夜のナースステーションでカルテに記録をつけていた。

夜勤に入る看護師は三人。うち一人は休憩中で、もう一人は巡視に回っている。ステーションには、私ひとりだった。


ピッ、ピッ、ピッ


一定のリズムを刻む高音が、張り詰めた夜の空気を震わせる。

手を止めて、聞こえてくる音を辿れば、ステーションの端に置かれた心電図モニターがそこにあった。

仄かに明るい画面に表示されるのは、規則正しい波形と、僅かに変動する幾つかの数値。

それらは全て、ひとりの人間の命を表している。モニターの上部に掲げられた『216』の数字が、それが誰のものかを示していた。


「戻りましたー。216の真鍋さんもぐっすり休まれてるようでした」


巡視に行っていた後輩が戻り、静まり返っていたステーションにも、にわかに活気が戻ってくる。


「ありがとう、それなら安心だわ」

「けどやっぱりあの部屋苦手です。見るからに何か出てきそうで……」

「馬鹿なこと言わないの。それに、ほんとに何か出たとしても、いきなり急変に当たるよりはマシでしょ」


そうですけどー、と後輩が口を尖らせた時、


ポーン、ポーン、ポーン、ポーン


モニターから聞こえてきたアラーム音が、こっちをみろと伝えてくる。異常が発生しているからと。

見ると、心拍数が僅かに乱れ、呼吸も早くなっている。どこか苦しいのだろうか。

後輩に後を頼むと、今度は私が216号室へと向かった。


コツ、コツ、コツ


静寂を乱す足音が、非常灯に薄く照らされたリノリウムの床で鳴り響く。

早足で病棟の端へ行き、右に曲がって奥へ入ると、その先にあった扉をそっと開けた。

部屋の中央に置かれたベッド、これまで数々の患者を看取ってきたそこに、今はひとりの女性が横たわっている。


意識障害を持つ真鍋さんは、滅多なことでは目を覚まさない人だ。調子の良い時でも、ごく稀に薄ぼんやりと瞼を開けて、天井を眺めるだけ。


けれど、私がベッドの右側から近づいた時、その真鍋さんがカッと両目を見開いたまま、私の方を見つめていた。


「ま、真鍋さん……? 」


声をかけると、見開かれていた彼女の両目が、さらに目一杯まで開かれる。よく見ると、目には薄い塩水の膜が張り、カタカタと震えているようだった。

「どうしたの真鍋さん、何か怖いことでもあった? 」

その瞬間、目の震えがピタッと止まった。

そのまま暫く見つめあっていると、不意にその視線が、スッと横へ流れる。


──私の背後にある、壁の隅へと。


不意に、背中を冷たい汗が伝い、全身の毛が逆立つ。

壁しかない筈の背後に感じる、じわりと重く、冷たい何かの気配。

足元から這い上がってくるそれは、私の全身を犯していき、心臓を鷲掴みにする。あまりの冷たさに、息を止めた。

それは、紛れもない恐怖。

何もいない、いる筈がない。頭ではそう思うも、理性の奥底に座する本能は叫んでいた。

『振り向いてはいけない』と。

なのに、私の体はゆっくりと動いていく。背後へ、そこにいる何かへと。

そして、振り返った。


そこには、何もいなかった。


常夜灯も届かぬ暗がりには、あのじわりと重く、冷たい何かの気配は残滓すら残っていない。

ライトの光を当ててみても、薄いクリーム色の壁が照らしだされるだけだった。

私は詰まっていた息を吐き、肩を下ろす。

なんだ、やはり何もいなかったじゃないか。いくら夜の病院とはいえ、私まで怖がるとはどうかしてる。新人でもないのに。


「なんだ、何もいないですよ真鍋さん」


振り返ると、真鍋さんはもう、壁をみてはいなかった。

彼女がみていたのは、その反対側。


──自分の枕元に立つ、男の影を。


「ヒッ……! 」


思わず、私は床に尻餅をつく。そして、ベッドの下から、それが見えた。

成人男性の体格に似合わぬ、右足の太いギプスが。


「か、川瀬……さん? 」


影は何も答えず、ただ真鍋さんを見下ろすだけ。

けれど、見上げた先に見たその顔は、般若のように醜く歪んでいた。


暫くその顔から目を離せないでいると、不意に明るい光が私の顔に当てられた。


「ちょっと、大丈夫? 」

「あ……先輩」


どのくらい放心していたのだろう。そこにいたのは、休憩に入っていた先輩看護師だった。

どうやら、いつまでも戻ってこない私の事を、後輩から報告を受けて見に来てくれたらしい。

立ち上がって見た真鍋さんは、いつものように目を閉じて、ぐっすりと眠っているようだった。

私は部屋を出ると、先輩の後に続いてステーションへと歩きだす。



コツ、コツ、コツ


静寂に満たされた暗い深夜の病棟に響く、二人分の足音。

先輩は何も言わず、私も、何も言えなかった。会話もなく、ただただ歩いて戻っていく。


コツ、コツ、コツ


「戻ったら休憩入っちゃいなさい。多分、この後忙しくなるから」


唐突に、先輩がそう言った。確かに、次は私の休憩時間だった。けれど、時計を見るとまだ十分は早い。


「けど休憩にはまだ少し早いですし、忙しくなるにしたって朝の検温や検査までにも時間は……」

「そうじゃないの。真鍋さんにも、見えてたんでしょ」


私、ではなく真鍋さんと先輩は言った。まるで、あの部屋で起こった事を、見ていたかのように。


「なら、多分今夜中には呼ばれるわね」

「ま、待ってください。あれって、何かの錯覚とかじゃ」

「……ほんとに、そう思う?」


音が止まる。振り向いた先輩は、何かを諦めたように笑っていた。


「死んでる人が、生きてる人を呼ぶこともある。特に、ここは病院だからね。けど、そんなのに科学的根拠なんて無いし。何より、いきなり急変に当たるよりはマシでしょ? 」

覚悟ができるから。と先輩が続ける。何に対しての、とは言わなかった。


心電図モニターから波形が消えたのは、それから僅か二時間後の事だった。



コツ、コツ、コツ


仄かに光を反射するリノリウムの床に、空気を震わせて足音が響く。

幾ら気を付けようと、鳴ってしまうのだから仕方ない。

恐怖もそうだ。そこにいると分かっているのに、恐れてしまう。

いっそ止めてしまえたらと思う。特に今は。

あの部屋にいる何かが恐ろしいから。

けれど、この足を止めるわけには行かないのだ。今だからこそ。

そこに、待っている患者がいる限り。

止めてしまえば、二度と向き合えなくなりそうだから。

あの部屋に棲む、暗い闇に。

そして、人の命と、その死にも。


生と死が隣り合う場所。病院とはどこも、生と死が絶妙なバランスで成り立つ曖昧さを孕んでいる所なのかもしれない。

だから、意図的に死を集めたような場所では、生と死のバランスが崩れ、生者が死者に引き寄せられてしまう。

勿論、根拠などない。けれど、死に部屋とはきっと、そう言う場所でもあるのだ。


だからこそ、私は今日もあの部屋へいく。

そこにある生と死に、向き合い続ける為に。


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