世界の解像度

変わり始めた世界の中で、けれど何も変わりはしない、そう思っていた去年の6月。

久々に友人たちと外で飲んだ、その帰り道での話だ。


久々という感慨を肴にビールや日本酒の消費に勤しんだ俺は、帰る頃には大分足元が覚束ない状態だった。そんな状態で友人の助けを断るくらいには、頭に霞がかかってたと思う。


ふらふらと彷徨うままに辿り着いたのは、繁華街から少し離れた公園だった。

ブランコと、滑り台、そして砂場しかない小さな公園。

見目を良くする為なのか、幾つかの植木が周囲を囲っていて、それがまた夜の闇を濃くしていた。

俺は揺れるままにその公園へ入ると、込み上げてくる感覚に抗いつつ走っていく。ぼんやり照らされた『使用中止! 』の札がかかる水飲み場へと。


胃の中の物をあらかた出しきったところで、改めて公園の中を見渡してみた。

少ない遊具、鬱蒼と繁る木々、萎れかけの花に伸び放題の雑草。

繁華街に近いことを差し引いたとして、お世辞にも地域密着型の様な公園には思えなかった。

ここで遊ぶ子供の姿を想像出来なかった、とも言える。

そして、闇が最も濃い場所へと視線が及んだ時、園内唯一のベンチに先客の姿を見つけた。

そいつは俺と似たり寄ったりのくたびれたスーツ姿で、やけに辛気臭い顔をしていたのを覚えている。


「こんばんは~。あなたも飲み会でしたか? 」


その辛気臭い顔に、折角のほろ酔い気分を害された気がした。なら、俺が元気にしてやろうと、大声を出しながらそいつに近づいていく。


「こんばんは。大分出来上がってる様だね」


始めて聞いたそいつの声は、意外にもしっかりしたものだった。

そいつの隣へ無遠慮に横に腰を降ろすと、俺の口は矢継ぎ早にそいつを質問責めにする。

歳は? 仕事は? 例のウイルス大丈夫? 今日は飲み会? 彼女いる?

話した内容は大体そんなところだろうか。最後の質問が彼女の有無だったのは、そいつが指輪をしてなかったからだ。

友人が持たせてくれた水を片手に、喋っては飲み、喋っては飲み。結局十分位は喋り続けていたように思う。

そいつは曖昧に笑うだけで、一度として答えを返してはくれなかったが。


そんなことを続けていると、流石に酔いも覚めてくる。残った水を一気に呷ると、途端に申し訳なさが湧いてきた。

見ず知らずの人に絡まれ質問責めにされるなんて、普通ならば怒り狂うだろう。

けれど、そいつは笑ったままだった。

今にして思えば、それは口許だけで、目は一度も笑うことはなかったのではないだろうか。


「知識が増えると世界が変わるってよく言われるだろ」


その声はまさに唐突だった。酔いが覚めていた俺は、少し考えてから答えを返す。


「そうだな。けど見えてる世界は同じだろ? 」

「いや、認知的な話さ」


顔は下を向いたままそいつは言う。俺は星でも眺めようと、木々に囲まれた狭い空を見上げた。

再び声が聞こえたのは、少しの間を置いたその後だった。


「知識が増えれば増えるほど、世界の見方、捉え方は変わる。それは、世界を取り巻く情報に対するアンテナが増えると言うことで、それ自体は良いことだ」

「そうだな。最近じゃ、解像度が上がるとも言うな」

「けど、アンテナが増えて変わった世界、それを受け入れられるかどうかは、また別だと俺は思う」


この手の話題であまり聞かない否定の言葉に、俺は顔を下ろして隣を見た。

そいつはというと、相変わらず、地面とにらめっこを続けている。

折角話しているのだから、少しくらいはこちらを見ても良いだろうに。


「公園があるとする。そこはブランコや滑り台、砂場とかもある普通の公園だ。緑化の為に幾つか植木や花植わってて、周囲には雑草が生えてる。何も知らなければ、ただの草だらけの公園にしか見えない……ここに限った話じゃないけどな」


なんだ、この公園の事かと一瞬俺は思った。だが、こちらの考えが読めるかのように、そいつはそれを否定し、話を続ける。


「けれど、そこに防災というアンテナを生やした時、公園という場所が、人口密集地から移動しやすい、災害時の避難場所としての姿も見えてくる。一見それと分からぬ物も、良くみれば災害用の設備と分かったりする。今座ってるこのベンチだって、災害時にはトイレか釜戸になるはずだ 」


公園ひとつとっても無計画に整備されるものは無い。こと最近では相応の設備が備えられていると、そういえばテレビで聞いていた気がする。

俺は立ち上がり、ぐるっと周囲を見渡した。

人の喧騒から隔たれた、狭く寂しい公園。

そして、似たような公園が点在するこの世界。つい先程までは、そうとしか見えていなかった。


だが今は、それだけではない公園と、それを取り巻く世界の姿が見え始めている。

まさに、世界が変わった──変えられた瞬間だった。


「......恐れ入ったよ。ひとつの公園でも見方が変わるし視点が広がった。でもそれはやっぱり良いことに思えるけどな」


「そうだな。──けど、そのアンテナが『不審者の情報』だったら?」


突然の不穏な発言に、俺は何も言えなかった。すると、目の前でそいつの顔がゆっくりと上がり、俺を見る。

漸く見れたその顔は、笑っていた。


「公園の植木に隠れて不審者が出ました。人が襲われました。……不審者が出たのは一度ではありません。それを知った上で、その公園はどう見える?」

「……隠れる場所が豊富で、不審者にとっては格好の場所だ」


つまりは、そこは安全な場所ではなくなる。


俺はとっさに背後を見た。その奥の暗がりを。

けれど、何もいない。物音一つ聞こえない、ただの闇が広がるだけだった。


「はは……そりゃそうだよな」


渇いた笑い口から溢れた。

何もいない、いるはずがない。

けれど、似たような状態であるこの公園が、安全とはもう思えなくなっているのも確かだ。

相変わらず、そいつの口許は笑っている。

これが質問責めにした事への意趣返しか。参った、降参だと、俺は両手を上げようとした。


「じゃあ……自殺者の存在なら」


瞬間、呼吸と鼓動が共に止まった。


「自殺者が植木に首を吊って発見されました。お前はそれを知ってます。さあ、どう見る?」


とても楽しそうな声だった。じいっと見つめるそいつの目が、早く答えろと俺を急かす。思わず顔を逸らしたが、突き刺さる視線はそのままだ。

冷たい風が手足の暖かさを奪い、背筋を冷たいものが流れていく。

俺は水を残さなかったことを後悔した。喉が渇く、けれど何か答えねば。


「……その植木を見て、そこで人が死んだんだなってなる」


ようやく絞り出した俺の声が震えていたのを、果たしてそいつは気づいていただろうか。


「人が死んだ場所がある、しかも自殺。それを聞いた人はこう考える。その人はどんな背景があって死を選んだか、どうしてここで首吊りを選んだのか、どんな思いを遺して逝ったのか。……もしかして、まだそこにいるんじゃないか? と」


そこに──俺の後ろの、植木の、上に。


反射的に振り替えって、上を見上げた。

そこにはやはり、何もいない。

そうだ、これはさっきと同じだ。俺が怖がるのを見て楽しんでいるんだろう。


「それは、ただの思い込みだろ」


強い口調で、けれど言えたのはそれだけだった。


「でも、実際に心理的瑕疵物件、所謂事故物件は存在する。それに、大抵の心霊スポットの始まりは事故や自殺といった死の存在、そして、その背景にあるだろう理由の曖昧さからだ」

「……」

「それが道路や屋上、閉ざされた部屋の中だとしても同じだ。そんなことを知れば、もうそこは自殺があった場所としてのアンテナが追加され、そのアンテナを通した世界しか見えなくなってしまう」


それに、と一層口角をニヤァと上げて男は続ける。


「ところで、自殺者の例え話には元になった公園がある。どこだか分かるか?」


まさか……額から汗を滴らせ、口を魚のようにパクパク動かすだけの俺に、そいつは言った。


「お前が座ってるとこの後ろ。そこにぷらんぷらん、てぶら下がってたんだよ」


その時、一陣の風が吹いた。風の勢いは強く、背後の木々を揺らす。


ギィ……ギィ……。


揺れた枝が音を立てる。揺れた枝が。

……その枝を揺らすのは、何だ。


ギィ……ギィ……。


風はもうやんでいる。なら、この音は何が。


ギィ……ギィ……。


俺にはもう、振り返る勇気はなかった。


「や、やめろよ! 冗談だよ、な? 」

「冗談とか酷いな……折角話してやったのに」

「聞きたいなんて言ってないだろ?お前が勝手に」


言ったんじゃないか。そう続けようとした俺を、鬼気迫る形相でそいつが睨む。この世の憎悪を全て込めたその目が、心底か恐ろしかった。


「おい、何なんだよあんた……まさか」


そう言えば、今座るこのベンチは、公園の入り口の真正面にある。幾ら酔っていたとはいえ、正面にいて先客に気づかないものだろうか?

後ろにある木、そこで吊ってたとしたら、現れるのは木の下……このベンチなのでは。


「ひ、ヒィッ……」


急にベンチから立ち上がり、後ずさろうとして、足がもつれた。

そのまま固い地面にドスンと尻餅を着く。痛みをこらえて腰と尻を擦っていると、頭上から笑い声が聞こえてきた。


「ハハハ! ……嘘、そこの木じゃ誰も死んでないよ」


そいつは俺の背後の木を指差すと、打って変わっての大笑い。

虚を着かれ、呆然となる俺。

手を借りて起き上がると、怒りよりも安堵が身体中に広がっていった。


「何だよ~けど、楽しかったよ。また機会があったら話そうぜ」


気付いて時計をみれば終電が近く、俺は走って公園を後にしようとする。


「ああ、待ってるよ」


去り際に後ろを振り返ると、静かな笑みを浮かべて、そいつが手を振っていた。

そのときの手付きがどうみても招き猫。実はそいつも酔っていたのかと、俺は笑いながら駅へ走った。


暫くして、友人にこの話をしたところ、あそこで以前、首吊りがあったのは確からしい。

ただし、ぶら下がっていたのは斜め後ろの木。つまり、あいつの後ろの木だった。

嘘というのは、木の位置の話だった。けど、あいつが幽霊かは、結局分からない。


もしそいつが幽霊でなくても、もうあの公園は単なる遊び場じゃなく、『自殺の現場』でもあるのだと俺は知ってしまった。

今の俺には多分、あの公園という世界が、違うものに見えるのだろう。

そしてあいつの言った通り、変わった世界を受け入れられるかはまた別の話だった。



俺は二度と、あそこへいくつもりはない。

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