短編ホラー

彼方

托鉢



それは、燃えるような暑さが続く、ある夏の日の事だった。


靴底が焼け付くアスファルトの道を、若い男が一人歩いていた。

まだ日傘が女性だけのものだった頃である。少しでも日差しを避けようと、僅かな陰を求めて俯きながら男は歩いた。

けれど上下左右、熱気はどこからも吹き付けて男を消耗させていく。

あまりの暑さに耐えきれないと、男は少しでも道の狭い路地を行くことにした。道の幅が狭ければ、それだけ日陰も多かろうと考えたのである。


大通りから一歩横へ入ると、そこには昔ながらの下町が広がっていた。二階建て木造建築の狭い長屋が軒を連ね、吊るされた風鈴が耳に爽やかさを届けている。

暖かみのある木の壁に、そこかしこで彩りを添える植物の優しい緑。

それは見ているだけで涼しく、そしてどこか懐かしい光景だった。

ここへ入って良かったと、軽くなった足取りで男は路地の奥へと足を進めた。



――暫く歩き続けた男の耳に、チリン、チリンと鈴の音が聞こえてきた。


明らかに風鈴ではないその音は、一体どこから聞こえるのか。

その瞬間、男の目の前に、日陰に隠れるようにして立つ、一人の托鉢が現れた。

男は驚き、その足が一歩後ろへと下がる。たった数人分の距離にいる筈の托鉢の姿が、全く目に入っていなかった。

まさに突然現れたと言って良い。まるで、幽霊みたいに。

けれど、あまりに突然とはいえ、それは手も足もしっかり見えている。それに、地面から立ち上るこの熱気だ。

暖められた空気が陽炎となって、托鉢の姿を隠してしまっていたのだろう。現代社会の多くは、こうして全て科学で説明が付くものだ。

それでも、男はその托鉢がどこか気味悪く思えて仕方なかった。少しでも避けようと、陽光の注ぐ反対側へと回り込む。

そして、日陰に立つ托鉢の姿を横目に、足早にそこを通りすぎた。



どのくらい歩いただろうか。なぜか日陰に入る気になれず、白く照らされた道の上を、俯きながら男は歩く。


その時、ふと男の耳元で、チリン、チリンと音がした。


思わずバッと顔を上げると、目の前の日陰の中に、あの托鉢がいるではないか。

そこで初めて、男の背筋にぞぞぞっと寒気が走った。


あれは、托鉢などではない。何か別の、恐ろしいモノだ。


男は慌てて踵を返すと、脇目も降らずに走りだす。けれど、暫く戻った先には、やはりあの托鉢の姿があった。

それとも、似たような格好の別人だろうか。いや、それならば服のシワや傘のほつれまで全く同じ筈がない。

男は辺りを見回すと、丁度真横にあった横道へと駆け込んだ。その先にある路地へと出ると、また一目散に走り出す。


走りながら、鞄に付けていた御守り袋へと手を伸ばしていた。

それは、男の祖母が作ってくれたもので、檀家をしている寺の御守りが入っていると聞いている。

正直、一度としてまともに聞いたことはなかったが、今はこれだけが、男を守る盾となってくれている様に思えた。



御守り袋を握りしめながら走るうち、景色にコンクリートやモルタルの灰色が混ざり始めた。

ふと、男は思う。考えてみれば、それなりに長く通い続けたこの土地で、木造の長屋など見たことがなかったと。

そうしてまた暫くすると、目の前に一台の自販機が姿を見せた。その姿を目にした瞬間、黙っていた男の喉が悲鳴を上げる。

喉が渇いて仕方がない、水が欲しい。


自販機の前で男は立ち止まり、鞄から財布を取り出そうと、御守り袋を握り締めるその手を離そうとした。

――けれど、何故かそれは躊躇われた。男の中で何かが激しく訴えてくる、その手を離してはならないと。

一方で、悲鳴を上げ続ける喉も、もう限界だった。

一瞬、たった一瞬だけだ。鞄から財布を取るその一瞬だけ離して、また直ぐ握り直せば良い。

たったそれだけの事なのに、鼓動は痛い程に早く、込み上げる吐き気で男はどうにかなりそうだった。


頭のなかで数を数える。一、ニ、

三、で手を離した。


離した瞬間、感じていた緊張感は、砂山を崩すがごとくあっという間に霧散した。なんと呆気ないものだったのだろう。

鞄から財布を取ると、けれど袋を握り直さずに男は小銭を取り出し、自販機へと入れる。

選んでいる余裕はない。一番上の水らしきものをのボタンを叩くように押した。

ガコンッ、と音がして、下に水のボトルが落ちてくる。それを手に取り蓋をはずすと、呷る勢いで口にした。

男の喉がゴクッ、ゴクッと音をならす。渇ききった男の身体に、水がゆっくりと染み込んでいく。ゆっくりと、少しずつ、そして確実に。


一口ほど残したところで、男は漸くボトルから口を離した。

溜めていた息を吐き、そして吸いこむ。水を得た身体に、新鮮な空気が染み渡り、身体が生き返ったように思えた。

ボトルに蓋をし、さあ帰るかと来た道を振りかえる。


托鉢の姿をした何かが、そこにいた。


逃げなくては。そう思うも、男の足は石のように固まっている。

足だけではなく、手も、首も、頭も、全てが動かずに、ただそこに在るだけだった。

目の前で、托鉢が鈴をならす。

耳元で、チリン、チリンと音がする。


チリン、チリン

陽炎に包まれるように、視界がだんだんと歪んでいく。


チリン、チリン

音が少しずつ、遠ざかっていく。


チリン、チリン


チリン、チリン


……チリン


男は薄れゆく意識の中、その傘に隠れた口が、笑った気がした。



都会の片隅に、ひとつの噂があった。

暑い夏の日、陽炎と共に現れる路地があるという。

そこはこの世とあの世のあわいの場所。入り込んだ人間を惑わし、黄泉へと誘う幻の路。

その路地には必ず、托鉢が一人立っているそうだ。迷い込んだ者の前に現れて、その人と入れ替わるために。

その路で何かを口にすれば最期、今度はその人間が傘を被って路地に立つことになる



――だから、燃える様な暑い日には、知らない路に入ってはいけないという。



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