第20話 新しい一日の始まり
いつも通り、日が昇る前に目を覚ます。
朝一の冷え切った井戸水で顔を洗えば、眠りの浅さがもたらす眠気も一掃できるから、自分がどのくらいの時間寝たかとか、充分な休息が取れたかとかを気にしなくて済む。
頭が冴えたら一番に気にすべきことは、騎獣たちの食事のことだ。人の食事は後回し、どうせどれだけ空腹でも、食欲をすっかり失う仕事が待っている。
蝋燭でぼんやりと照らされた食料貯蔵庫の作業場では、既にエミリアが騎獣たちの朝食の支度を始めていた。
人に切りつければ命に関わるような巨大な牛刀を用いて、保存するために表面だけを焦がした巨大な骨付き肉の焦げを剥がしている様子は板についていて、バケツに放り込まれた完成品と剥がした焦げには、無駄らしい無駄が見当たらない。いつでも肉屋に就職できる腕前だ。
「おはよう」
「おはようございます。シェイクテイルの分は、その二つです」
焦げを剥がす作業を一旦止めたエミリアは、薄く血のりで濡れた牛刀で鹿の足が数本突っ込まれたバケツを指して言った。レイオン種は骨ごと食べるから、筋を切ったり、骨を外したり、面倒なことはしなくて良いが、とにかく用意しなければならない量が多いから自身の空腹を忘れるほど、肉の山を処理しなければならない。
「おう。危ないから、横着すんな」
「普段は作業場に二人いることなんてないでしょう」
「それはそうだが」
騎獣たちの食事の支度は朝夕の二度の当番制で厳密に時間が定まっている訳でもない。給餌当番が特別せっかちでない限り、作業場に何人も詰め寄せることは皆無と言える。
空いている左手で首を揉んでコリをほぐしたエミリアは、小さくため息をつき、改めて焦げを剥がす作業に没頭する。
育成牧場の仕事の中で、最も孤独で退屈な仕事が食事の支度だ。誰もが好んでやりたがる仕事ではないから、当番制になっているという側面もある。
「悪いな」
自分でも謝罪なのか感謝なのか分からないような言葉が、口から洩れた。
シェイクテイルと俺は、今朝からハインツさんの勤め先である新聞社の配達員として勤めることになっていて、しばらく当番から外して貰っている。退屈だが誰かがしなければならない仕事を黙々とこなすエミリアの姿を見ると、非常な申し訳なさを感じた。
俺一人がいくつかの日常業務から抜けることで、エミリアを始めとした他のトレーナーが負う仕事は間違いなく増えている。
「なに?」
手を動かし続けるエミリアは視線だけをこちらに向けて言う。
俺の中途半端な言葉は、エミリアには上手く聞き取れなかったらしい。
別に、どうしても伝えたかった言葉でもない、聞こえなかったなら聞こえなかったで何の問題もない。
はっきりと礼を口にすべきだと思いはするが、改まって言うのも首の後ろがかゆくなる。そんな考えが内心ある。と自分より大分年したの娘さんに知られるのも面白くは無い。
「いいや、別に」
シェイクテイルの朝食が収まったバケツに手を伸ばしながら、はっきりとしない言葉をなかったことにする。
ともかくだ。シェイクテイルはこれから、慣れない仕事をしに行かなければならない。何の目的もなく空きっ腹を我慢させることもないし、俺にも荷車を引かせるために必要な道具の支度があるから、エミリアと雑談できる時間は無い。
ハインツさんとは長い付き合いだけれども、仕事をさせてくれとお願いした立場の人間が、初日から遅刻するなんてことは許されない。どれほど親しい相手であろうとも、仕事は仕事。
それに、俺がエミリアに教えられることは、もうほとんど残っていないし、相互理解のための雑談が必要なほど、知らない仲でもない。
「よっ、と」
鹿の後ろ脚が何本も突っ込まれた大きなバケツは、中々の重量があって、思わず声が漏れる。
左右に一つずつバケツを持てば、自分が案山子になったような気さえする重さだ。
「じゃあ、行ってくるわ」
順当に仕事が進めば、エミリアの作業が済むよりも早くに仕事に向かうことができるだろうから、出がけの挨拶のつもりで声をかけた。
「ん」
いかにもテキトウな返事を背中で受けて、ぼんやりと明るくなってきた牧場内を進む。
自分とエミリア以外、誰も動き出していない未明の牧場は、とても静かだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます