第10話 産声と唸り声
春、騎獣たちの分娩予定日が近づくと、牧場全体がピリピリするような緊張感に包まれる。
騎獣の配合時期は決まっているから、一頭生まれたら、ある程度一斉に生まれてしまう。
分娩予定日は個々の配合月日によって多少のばらつきがあるものの、遅くとも予定日の二週間前には分娩に必要な準備を全て済ませる必要がある。
中でもフェザーブルームは去年、配合のため遠くの街まで遠征したから、他の騎獣たちよりも予定日自体が遅れていた。時間に余裕があったお陰で万全に万全を重ねることができたから、悪いということもない。
飛び切りの早産は別だが、常識的な範囲で早く生まれる分には全く問題がない。
そもそもレイオン種は安産が多いという要因もあるが、予定日一週間前に、トレーナーが少し緊張してくる程度の問題しかない。
俺が管理するフェザーブルームの分娩は、予定よりも遅れそうな雰囲気があって、その予想通り早くに生まれることはなく、他の騎獣のほとんどが分娩を済ませても、まだ分娩予定日を待っていた。
統計上、予定日当日に生まれる確率は数パーセントしかない。それでもやはり予定日当日は特別な覚悟でもって寝ずに夜を明かす。
予定日を三日過ぎれば、結構な量の昼仕事をエミリアに肩代わりして貰ってすら俺は睡眠不足でふらふらになった。しかし、普段から世話になっている医者に連絡しておくことだけは忘れない。
五日過ぎれば、何はなくとも、とりあえず医者を呼びつけて診察してもらい。胎児が胎内で死んでいる訳ではないと太鼓判を貰って、まずは安心した。
一週間も過ぎれば毎日医者を呼んだ。
予定日を十日過ぎ、日に日にやつれていく医者に『そんなに心配ならフェザーブルームを連れてこい』と言われたため、翌日、入院させるつもりでフェザーブルームを引きつれて診療所に出向くと『皮肉だアホたれ、さっさと帰れ、まだ生まれない』などという心無い言葉を投げかけられた。俺は、寝不足が原因で頭がまともに働いていないことを自覚した。
かと思えば、ちょっとした運動が良かったのか。獣舎に帰るなり産気づいて、つるりと生まれてしまうのだから、生き物とはまったく、わからないものだ。
分娩用の狼房で横になっていたフェザーブルームは、分娩が済むとケロッとした表情で立ち上がり、生まれた仔狼を眺めた。
流石は三産目、安心して見ていられる分娩だった。そもそもレイオン種は安産が多く、もう生まれるような状況になれば、ほとんど手はかからないのが普通だ。必要な準備のほとんどは、いざという時に備えてのものだから、使わなくて済むに越したことはない。
「よーしよし。お疲れ様ー」
今年の分娩のほとんど全てに関わり、今ではすっかり見事な手際を見せるようになったエミリアがフェザーブルームのすぐ傍らで労いの言葉をかけている。
俺もフェザーブルーム後ろで中腰の姿勢でいたのをやめ、腰を下ろし、寝藁の上にあぐらをかいて息を吐いた。
「ふう」
まずは、良かった。やっと、満足に寝れる日々が帰ってくると思うと、どっと疲れが来る。
生まれたての仔狼は、羊水でべちゃべちゃのまま寝藁の上で丸くなり、みーみー鳴いている。本能的に母親を呼んでいるのだろう。
無事に生まれたことに、心の底から安心した。
「おーおー、元気なもんだ」
絵画にあるアドマイヤーとは似ても似つかない群青の体毛に、やや大きめの体格をした仔狼だが、ぱっと見た感じ、異常はなさそうだ。
後は、フェザーブルームが生まれた仔狼を濡らしている羊水を舐めとるのを確認してから、分娩で汚れた寝藁を掃除して寝藁を足しさえすれば、仕事はひと段落だ。
フェザーブルームの母性本能が強いことは過去の分娩から分かっている。余程のことがない限り、しばらくは手がかからないと約束されているに等しい。それに、あまり早くから母親と引き離しても良いことはない。
これからは多少は楽ができると思うと急激に眠気がきて、それを打ち払うために頭を左右に振って、天井を見た。みーみー鳴き続ける声が子守歌に聞こえてしまうのだから、相当不味い。
力任せに目を見開く、俺の部屋より綺麗な天井が見えた。蜘蛛の巣一つもねぇ。エミリア良い仕事してるわ。
そうだ、生まれたからには名前はどうするんだ?牧場長が決めるのか、俺が決めるのか。そう言えばその辺の確認をしていない。
「ブルームどうしたの?」
すんすん鼻を鳴らす音が聞こえた。エミリアでも俺でもないとすると、フェザーブルームしかいない。
何か気になることがあるのかと思って、フェザーブルームを見る。
瞬間、聞いた者をぞっとさせるレイオン種の喉鳴りが聞こえて、背筋が粟立つのを感じた。
フェザーブルームは姿勢を低くし、牙をむき出しにして、まだ名前もない仔狼を凄まじい形相で睨んでいる。
それではまるで戦闘態勢ではないか。
少なくとも、自分の産んだ仔に向ける態度ではない。
「おい馬鹿やめろステイ!エミリア逃げろ!こいつ子供食う気だ!」
まだ犬くらいの大きさしかない仔を抱えるために、俺は全力で自分の足を後ろに滑らせて、前に倒れ込むようにする。
寝藁があるとはいえ強打した肘が痛むけれども、そんなことを気にしている余裕はない。
「えっ、ブルーム!?待って!ストップ!ストップ!ステイ!ブルームやめなさい!!どうどう!」
羊水で湿った寝藁ごと仔狼を片腕で抱き上げて、もう片方の腕で這いずるように立ち上がり、必死になって狼房から逃げ出す。手の平が羊水でベトベトに汚れようが、クソを踏もうがお構いなしだ。それどころじゃない。
「ステイ!ブルーム!どうしたの!」
「馬鹿たれ!お前も早くこっちに来い!」
二つ隣の狼房の前まで逃げ、まだ逃げていないらしいエミリアに向かって怒鳴る。
「え、あ!はい!
「閂なんてどうでも良い!
ブルームの耳が俺の声に反応したのを確認して、ほんの少し心に余裕が戻った。
成獣のレイオンが本気で暴れたならば、狼房のゲートを閉じるための閂なんて、何の役にも立たない。閂どころか、建物自体だって無事では済まないかも知れない。
けれども結果として、建物も俺もエミリアも仔狼も全て無事であるということは、フェザーブルームは長年にわたる調教すら忘れるほどの興奮状態にはないということだ。それが俺たちにとって救いになった。
「お待たせしました」
「いい。このまま舎外に出る。ついて来い」
互いに、なんとも言えない雰囲気をまとい、フェザーブルームの唸り声に追われるようにして、俺たちは獣舎から出る。
獣舎から出て閂をかけると、中からフェザーブルームのものと思しき剣呑な雰囲気の遠吠えが聞こえて、獣舎内は大合唱の有様になった。
俺たち二人は訳も分からず、その場に立ち尽くす。
必死になって連れ出した仔狼にまとわりつく羊水が服に染みる感覚が、やけに気持ちが悪かった。
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