第8話 二冠と五冠
暇で仕方がなかった。
担当する騎獣が引退すると、次の担当騎獣が定まるまでの数か月間、トレーナーの仕事は激減する。
他のトレーナーのサポートをする仕事もあるにはあるが、仕事の段取りは担当のトレーナーが組むから、指示通りの労働をこなすだけで頭を使うということはないし、すぐに済む。
次の担当騎獣がおおよそ定まっていたりすれば、母体の管理に注力したり産駒の調教予定の大枠を考えたりするものだが、生憎と俺は担当したい騎獣がいない。
アドマイヤブラウンが居た頃に比べれば、何もしていないのと同じくらい、仕事をしている気がしなかった。
寝て、起きて、飯食って、仕事をしているふりをして、飯食って寝る。
考えることは常に答えの出ない問題のことで、やたらと寝つきの悪い日が延々と続く。
そのせいかアホみたいなミスも山ほどやらかして、牧場全体にクソほど迷惑をかけた。
だから、牧場長直々の呼び出しを受け、事務所の一室で叱責を受ける羽目になったのだろう。
「お前やる気あんのか?」
小ざっぱりした事務机の向こう側に座る父から、大いに怒気を含んだ声が浴びせかけられる。
俺はそれを、ただ突っ立って聞くしかなかった。
自分にやる気があるのか、ないのか。今一つ良く分からない。
仕事は仕事としてキチンと勤めるべきという考えもあるし、今は何もやりたくないという気持ちも確かにある。
「ミスは良い、誰でもする。気分が乗らない時もあるだろう。人も騎獣も大した違いはないもんだ。やりたくないと思っている時に良い成果はでない。だから、それは良い。だがいつまでも改まる気配すらないのはどういうことだ?もう三月も末だぞ」
自分でどうにかできるなら、とっくにどうにかしてる。ガキじゃねぇんだ。
確かに俺が今、何もしたくないのは事実だ。でも仕事をしなければ食って行けず、仕事には責任が伴うということも理解しているから、仕事をしている。
自分のミスは当然、自分で尻拭いをした。ミスが多いのは仕事中に余計なことを考えてしまうからだ、でもそんなこと、俺自身にすらコントロールできるものじゃない。
「アドマイヤブラウンのことは一旦忘れろ、まだ切り替えられないのか」
父が身を乗り出して机の上に両肘をつき、両の手を合わせたのが見えた。
遅れて、じんわりと耳にしみ込んだ父の声が頭の中で正しく意味を捕まえると、急激に燃え上がる感情があった。
「あ?忘れろってなんだ?まだってなんだよ?おい」
少し面食らった父の様子など、どうでも良かった。
「忘れるとか無理だろ。それに、もうとか、まだとかいう話じゃねぇだろうが。簡単に切り替えれるわけねぇだろうが!引きずるに決まってんだよ!四年だぞ!俺はアドマイヤブラウンが赤ん坊の頃から四年間毎日ずっと一緒に過ごしたんだ!あいつが体調崩した時は必死こいて世話をした!あいつが競技会で勝てるようにあらゆる技術を教えた!少しでもあいつのためになるように毎日毎日勉強して俺に足りない知識を集めた!四年間ずっとだ!それで!それでもあのザマだぞ!どうしたら良かったんだよ!どうしたら良いのか知ってるなら教えてくれよ!あんた五冠獲ったんだろうが!二冠で躓いてる俺とは違うんだから分かんだろ!?なぁ!?」
驚いたような表情をして固まっている父を見ると余計に腹が立って、腹の中で数か月煮詰められた思いが次々と口から吐き出される。
「なあ、黙ってないで答えてくれよ。アドマイヤブラウンは強かったよな?でも勝てなくなった!何でだ!?ゴルトンディアマントが強かったから?レイオンは早熟でレプタイルは晩成だからタイミングの問題か?そうだろうさ!んなことは分かってんだ。どうしようもない種族の優劣はある。あれは本当に憎たらしいくらい強かった、でも俺は勝てない相手だなんて思わなかった!アドマイヤブラウンなら勝ち筋があったって負けるたびに思った!負けてから気付くんだ!負けてから気付いて何の意味がある!?
腹の内から一息で出せるものを出すと当然、息が尽きた。
だが、まだまだこんな物じゃない。言いたいことは山ほどある。だから息を吸った。
「勘違いしてんじゃねぇぞ若造」
俺は、割って入るように耳に届いたその声が、自分の父親の声だと、一瞬わからなかった。
腹に吸い込んだ空気は行き場を失い、ただ鼻から抜けて、音にもならない間抜けを晒す。
「お前自分一人でアドマイヤブラウンを育てたと思ってんのか?自分が未熟だったからアドマイヤブラウンが負けたと思ってんのか」
吸い込んだ空気は抜けきっていて、そうだ。の一言だって発せない。
「この牧場は先祖が残してくれたものだ。騎獣に食わす飯は猟師や農家が用意したものだ。調教技法は大昔の人が試行錯誤して発見し洗練してきたもの。競技会ができるのは軍や応援してくれるファンの人達がお金を出してくれるから。騎獣が病気や怪我をしたら治療するのは医者の仕事で、必要な物を買うには商人の力を借りる。物や騎獣を遠くに運ぶには御者に頼む。騎獣に食わす飯を実際に運ぶのは若い従業員たちの仕事だ。何より俺たちがこうし安全に仕事ができるのは、北で命懸けで戦ってくれてる騎獣たちのお陰だ。俺もお前も、一人で騎獣を育ててるなんてことはできねぇんだ」
「トレーナーの仕事に驕りはいらねぇ!お前がアドマイヤブラウンと負かした相手は全員クソか何かなのか!?お前に負けた相手は全員お前より努力しなかったから負けたのか!?才能がなかったから負けたのか!?ゴルトンディアマントは担当トレーナーがお前より優れていたから勝ったのか!?才能や種族の特性だけで勝ったのか!?そんな馬鹿な話があるか!どいつもこいつも必死こいて努力してんだろうが!」
「お前もアドマイヤブラウンも、最大限の努力をしてきたことは認める。お前たちは努力をしたから二冠を獲った。それは誇れ」
「ゴルトンディアマントさえ居なければ、お前たちは八冠も獲れたかもしれない。優先繫殖枠に選出されたかもしれない。そう思いたくなる気持ちは分からなくもない。だが、その仮定がなんになる?事実としてお前たちの世代には、ゴルトンディアマントが居た」
「勝てたかもしれないと反省するのは良い。だが勘違いするな。お前はまだたった1頭の騎獣を育て切ったに過ぎない若造だ。お前がアドマイヤブラウンの担当になったのも、アドマイヤブラウンに優れた才能があったことも、ゴルトンディアマントと同じ世代を戦ったことも、優先繫殖枠を逃したことも全部、ただのめぐり合わせでしかない。お前はまだまだ未熟なトレーナーだ。それが次は史上最年少三冠だなんだと世間様に期待されて自分は他よりマシなトレーナーだと勘違いしてやがる。自分なら勝たせることができたはず、なんて考えるのはとんでもない傲慢で、許されない怠慢だ」
「良いか、よく聞け。トレーナーは自分が相手よりも優れていると思ったら終わりだ。どれほど他人に褒められようが、どれだけ勉強した自信があろうが、常に自分には足りない部分があると肝に銘じろ。才能だけじゃ
言葉の一つ一つが体の深いところに、ざくざくと突き刺さるような感覚がした。
トレーナーであれば必ず肝に銘じておかねばならない、絶対に正しい正論で刺された気がして、情けなかった。
「じゃあ」
それでも、納得はできない。俺の悩んでいることは、誰かの口から正論を聞かされて、ああそうだったのかと思えるものではないらしいと、初めて気づいた。
「じゃあ、どうにもできねぇじゃん」
「ああ?」
「俺がどんなに頑張っても!めぐり合わせだけで、どうとでもなっちまうんなら!みんな軍に取られちまうじゃねぇかよ!」
こいつは何を当たり前のことを言っているんだ、と言いたげなポカンとした父の表情を見て、俺は自分が本当は何に不満を感じているのか、ようやっと理解した。
父はトレーナー暦四十年を越す熟練。業界の酸いも甘いも、嬉しいも悲しいも知り尽くした、本物のトレーナーだ。
そして俺は三十路にも至っていない、ライセンスの取得年数で言えば十年にも満たない若造で。たった1頭の騎獣を育てただけの男だ。
それだけ積み上げてきた
俺は、勝つとか負けるとか、本当はどうでも良いと思っているらしかった。食うに困ったこともないから、牧場の経営がどうとか、大して知らない。
ただ、手塩にかけた騎獣が、自分の元を離れてしまうのが悲しくて、嫌で、辛くて仕方がなかっただけだ。
愛おしくて仕方がない相棒が、不幸になってしまうかもしれないということが、他のどんなことよりも耐えがたいのだ。
トレーナーなら誰でも通る当たり前の道で、俺は大きく躓き、すっ転んだというだけの話。
根っこにあるのは、努力は報われるべきだという理想論と、子供じみた愛着心。
数秒か、数十秒なのか分からないが、沈黙がやたらと不快だった。
顔が熱くて、足の裏がこの場から早く逃げ出したいとむずむず暴れた。
唐突に扉がノックされる音が響く。
『牧場長、ハインツさんがお越しですけど、お通しして大丈夫ですか?』
扉越しに誰かの声が聞こえた。
来客があるなら、俺がここにいては邪魔になる。
絶好の言い訳を得て、俺は牧場長に尻を向けて歩き出す。
「おい」
ドアノブに手をかけた時、酷く平坦な声が後ろから聞こえて、思わず肩が跳ねた。
「何もアドマイヤブラウンのことをすっかり全部忘れろだなんて誰も言ってねぇ、上手く折り合いをつける方法を学べ。お前には何もしてない時間が一番悪い、暇だからグダグダ頭を捻る羽目になるんだ。フェザーブルームの管理は今日から全部お前がやれ、意地でもアドマイヤーを目指した仔を無事に産ませろ。良いか、お前にはもう後輩がいる。エミリアに仕事の仕方を教える義務がある。忘れるな」
俺はその言葉を聞き、振り返らず、脇目も振らず、逃げるようにフェザーブルームの元に向かって歩いた。
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