第2話 音楽の女神ミューズたちが教えてくれたこと

 突然霧がたちこめ香しい香りが漂ってきました。気がつけば、ソフィーの前に音楽の女神ミューズが現れました。

 女神ミューズの姿は七色に輝いていて、光の衣に身を包んでいるようでした。女神は語り出しました。その話し声は心が満たされるような、暖かい響きでした。


「私は世界中旅をします。人間は誰しも孤独なのです。私は、夜一人きりで流す涙の受け皿、或いは、愛する人と踊るダンス、深い思いに沈む時にも、耳を澄まして音楽を聴いてくれれば、私はその人のすぐそばにいるのですよ。」

女神は多くの人の愛や感動、そして孤独や哀しみに出会ったと話します。



「ソフィー、これから八人のミューズが八人の女を紹介します。時代、国、年齢、職業も違う八人の女たちです。私はあなたに教えたいのです。あなたは花の妖精。ソフィー、あなたは人間のことをまだよく理解出来ていないのです。でもアルゲイと愛し合うようになってからは、少しずつ人間の女の感情を分かるようにはなってきたのでしょうけれどね。女たちはそれぞれに、ある日どこかで、こんな想いを抱いて生きているということを、女たちの歌を聴いてよく考えてみるのですよ。」



「最初の女は、そうね、賢く、どこか諦めも知っている女、その哀しい瞳は全ての苦しみを受け止めているようだわ。哀しいほどに愛する人の心がわかるのよ。愛すれば愛するほど、ほんの僅かな仕草からでも、相手の心が読み取れるものだわ。だから、いっそう苦しい夜を過ごさなくてはいけないのだけどね。」

ミューズは竪琴をかき鳴らしました。

 やがて、ソフィーの耳に聞こえてきたのはかすかな細い雨の音。それは森の木々を濡らす雨の音ではなくて、そう、屋根やガラス窓を濡らす雨音。もちろんソフィーには家の中の音なんて聞いたこともないのだけれど、アルゲイのピアノを聴きに森の外れまで行き、そこで舗道やポストや車にあたる雨音を聞いたから、何となく分かるようになったというもの。


 雨の音は部屋の中まで聞こえる、暗く悲しい雨音の旋律。涙に音はないけれど、雨音と重なり単調なリズムで繰り返される頬を濡らす涙の音楽。震える声で愛する人への想いを切々と高音域のソプラノで歌う。心の雨の音にかき消されないようにして。女の心の音。

「あなたの心を聞いたりなんかしないわ。それが望みなのでしょう。私は苦しむために生まれてきた女なのよ、もう二度と降り止むことなどない雨」だと。

 きっともう二度と太陽は出ないと思っているのね。ソフィーはそっと呟きました。


 しばらくすると、二番目のミューズが現れました。

そのミューズのオーラは深紅の薔薇色。なんて艶やかなんでしょう!

「こんにちは、ソフィー。二人目の女は古い時代のパリの娼婦よ。そう、私はパリが好きだから、もう何世紀もパリに住んでいるのよ。美しいパリ!」

「さて、二番目の女の歌は娼婦が踊り出しそうな勢いで始まる明るい歌なのよ。決して幸せとは言えない自分の境遇をよく分かっているけど、自分の心の寂しさや惨めさを心にしまって、何とも哀れなしょぼくれた姿で現れた客の気持ちを陽気に優しく励ますのよ。」

 ソフィーに聞こえてきたのは、少し時間を遡ったパリの街に流れる陽気なアコールディオンの音と歯切れの良いリズムの歌声。

 その娼婦はお客を迎えて「さあ、椅子に座って温まって!脚を椅子に放り出して!」

「昨日港であなたを見かけたわ、あなたはマフラーを首に掛けて王様の様に偉そうに歩いていたけど、隣にはなんて綺麗な娘がいたかしら、私は少し惨めになったくらいよ・・・でも、その娘は沈没した船に乗っていて死んでしまったのね。あんたは、美しい恋人も財産も全て無くして。ほんとうに悲しいことがあるものだわ。さぁ!少しでも微笑んで、笑って、歌って、躍るのよ!悲しい事の後には、きっと良いことがあるからさ!〜

悲しくしょぼくれたお客は、最初はぎこちなく過ごしていたけれど、娼婦のもてなしで、少しずつ元気になって、歌って踊りだした。娼婦はまだまだ励ましてる。そして客の歌や踊りが佳境に入るとブラボー!アンコールと叫んでる。

酔いが覚めまた一人になれば落ち込んでしまうのでしょうけれど、こんなふうに笑って歌って踊れば、その時だけでも元気になるものだわ。酸いも甘いもわかっている娼婦の優しさと強さのお陰ね。人は悲しい想いをたくさん経験した人の方が優しくなれるものだからね。

聴いているソフィーまでが、その娼婦の優しさに触れて、勇気を持つことが出来たのです。


 三人目のミューズが現れました。薄い紫色の光。豊かな物腰と歌うような舞台の役者の様な語り口調のミューズ。

 「綺麗な森ね、ソフィー。三人目の女は道化師を愛した女の歌よ。道化師の愛はアラジンのランプのように朝には儚く消えてしまう。役者の魂を知っている女道化師。ライトに照らされて、華やかだけど、ほんとうは毎日綱渡りのような生活。未来も何も約束もない愛。でも女は愛する人の舞台にアンコール!と叫ぶの!恋人の演技に感銘を受ける幸せは、なかなか味わえるものではないでしょうからね。そして、幕が降りて照明も消え、お客も帰って夜も更ければ、幕の袂でふたりで眠るの。遥から歌い夢の中で満たされるのよ」

 聴くうちにソフィーは劇場の舞台を観ていた。道化師と女道化師。沢山のお客。とても楽しそう。舞台は森の中とは違って、何もかも作り物の世界。でも何故か人は真実を見ることができるのね。

語り口調で歌い出された曲。女道化師が歌っている。アコールディオンとヴァイオリンの旋律が歌と織り合い、絡み合っているみたい。語りのように歌う歌。儚げな単音。女道化師は、舞台という仮想現実の中にいるけれど、心の中は愛でいっぱい、道化師を愛しているのね。思いを切々と歌っているわ。そして、自分自身も女道化師の仮面を脱いだ時に、恋人に抱かれて眠るのだわ。

ソフィーはライトの影、衣装の衣擦れの音、役者のため息、それらを織り込んだ音楽にすっかり魅了されてしまったのです。

 



 美しい音色とともに顕れたのは四人目のミューズ。

「竪琴を持ってきたから、後で一緒に歌いましょうねソフィー。四人目の女は、雨の中に去っていく恋人に窓から身を乗り出して手を振っているけなげな女のお話なのよ。

いつかまた訪れてくれるときのために、お庭に咲く薔薇を育てていこうと思ってるわ。」

 ソフィーはある女の部屋の中にいた。恋人は雨の降る夜帰っていく。また電話するよ、風邪ひくなよ・・・女は恋人が帰ってしまうと心は凍り付いてどんなにか孤独なのに、一生懸命に笑顔で手を降って見送っている。窓から乗り出すものだから、腕も頬も睫も雨の中。美しいピアノの旋律に合わせて、細い声で歌う女。愛してくれるだけで、私は幸せ、ほんとうのことよ。そんなに多くは望まないわ・・・。少しゆったりしたテンポ、途中で溢れるようなピアノの伴奏に歌が羽を広げたようなメロディーを合わせる。途中、とても暗い短調になり本音を囁くの。

「悲しい雨があがったら薔薇の様子を見ましょう。あなたがまた訪れてくれる時のために・・・。」寂しく歌うの、でも、また雨の音と心臓の鼓動のような音、そして優しい音調で終わる歌。


 ソフィーはこんな経験をしたことはない。愛する人がいつもそばにいてくれないなんて、なんて寂しいのかしら。ソフィーはアルゲイを想った。どんなにそばに居たいと願っても離れていってしまう。それでもこの女は何も言わずに送り出すのね。そんな優しい人がいるなんて・・・。

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