金魚と灯籠 67日目

 オフィスの外から見る久しぶりの夜景は街灯やお店の灯りで美しく輝いていて、道行く人たちの賑やかな声は街に活気を与えるほどに強く、その勢いはまだ簡単に収まりそうにはなかった。


「ごめんなさいね、付き合ってもらって」


 その街の様子を息抜きで眺めていると、後ろから課長に声をかけられる。


「全然大丈夫ですよ」


 定時を迎える三十分前になって急な残業を申し付けたことを気にしているのか、眉はハの字に下がり困惑の顔を向けている。

 普通なら嫌がるかもしれないけど、課長には仕事のフォローをしてもらったり休みの融通を効かせてもらったり色々よくしてもらっているので、こういう時に頼ってくれるのは素直に嬉しかった。


 それに、今は仕事に打ち込んで気を紛らわせたい気持ちも、心の片隅では思ってもいた。

 


 好きということを自覚してからも、三咲に対しては普段通りに接している。

 ……そのつもりなのだけれど、意識するようになってから今までどんな風に話していたのか分からなくなってきてしまい、今朝もいつもの私を演じきれていたか不安しか残らず、悟られたりしていないか気になって仕方がなかった。

 それから少しでも気持ちを逸らしたくて、こうして今も仕事に没頭している。

 まるで三咲から逃げるような行動に見えてしまうのが嫌だけど、今は恥ずかしさや迷いが勝って向き合うことすら出来かねるので、今はなるべく考えないようにしていた。



「それにしても、最近は調子が良いみたいね」

「えぇ。おかげさまで……」


 そろそろ続きをやろうと大きく伸びをしたところに課長から何気なくそう言われ、私の元気が戻ってきたことを喜んでくれる。

 しかし、課長にも母の一件で色々気を使わせてしまっているので、そんなことを言われると内心申し訳なさでいたたまれなくなっていた。


「せっかくいつもの森野さんに戻ってきたのに、こんなところでこき使ってるとあなたの恋人に怒られてしまいそうね」


 二人静かな社内で、無機質な空気を打ち消そうとしたのだろう。彼女の口から、軽い冗談のつもりで『恋人』という単語が出てくる。

 まさか課長の口からそんな言葉が出てくるとは思わず、身体が過剰に反応し頭がそれを三咲に置き換えてしまうので、赤く染め上げてしまうほどに再び熱が宿り始めていた。


「いないですよ、そんな人」


 動揺しているのを知られないように笑ってごまかし、平静を装って答える。

 その返事に課長はそれ以上深く掘り下げてくることはなく、ただの愛想笑いを浮かべてから再び仕事に戻ろうとしていた。




「——でも、気になる人ならいます」




 課長を呼び止めるように、喉の奥からその一言がこぼれ落ちる。

 彼女は所謂一般的な家庭を築いている人なので私みたいな経験はないかもしれないし、もしかしたら驚いてしまうかもしれない。それに、こういうことは軽率に話していいものではないというのも、感覚的には分かってはいるつもりだった。



 けれど、いつも色々気にして皆の相談にも乗ってくれる彼女なら、私たちのことを信頼し続けてくれるこの上司なら、行き場の見えないこの想いを話してみても良いかもしれない。



 未だまとわりつく不安とその衝動に駆られた時には、既に課長はこちらを振り向いていて、一瞬目を見開いていたけどすぐにお淑やかな眼差しになって続きを待ってくれる。

 個人的な悩みにも真剣に向き合おうとしてくれる姿勢に胸が熱くなり、更に言葉は口をついて出ていた。


「数か月前に知り合ったのですけど、最初は顔の良い親切な人だなって思ってたんです。それから成り行きで連絡先を交換して、一緒に遊びに出掛けるようになって、私が悩んでいた時は相談にも乗ってくれました。……たぶんその頃から、隣にいると楽しい以外の感情が湧いたり、誰かと話している姿に嫉妬するようになったりして、気づいたら頭の中が彼女のことでいっぱいになっていました」



 纏まらない言葉を並べて、それでも正直な気持ちを隠すことなく吐き出していく。

 三咲と出会ったことも、一緒に行った水族館のことも、私が母のことで色々抱え込んでいた時に傍にいてくれたことも。

 その全てを聞いても、私が女の人を好きになったことを知っても、課長の表情は変わらないでいてくれて、時折相槌を打ちながら話が終わるまでただ黙って聞いてくれていた。



* * *



「——それで、森野さんとしては自分の気持ちをどうしたらいいのか、本人にちゃんと伝えるべきか悩んでいる、といったことで良いかしら」


 話を一通り終えて、課長は静かに私にそう訊ねてくる。


「今まで恋愛とかしたことがなくて……。それに、相手が同じ女性でずっと友達だと思っていた人だから、冷静になるほどにどうしたらいいのか分からなくて」


 周りがよくいう普通の恋愛すら漫画や映画などで多少の知識があるぐらいで、今まではそういうのに五月蠅かったのもあってろくに人のことを見ている余裕なんて全くなかった。

 そのことを含めて聞いていた課長は、言葉を探しているのか何かを考える素振りをしている。

 それからしばらく経ち、短針がまた変わろうとする手前になってようやく声がオフィス内に響きだしていた。


「森野さん、正直に言うわね。……私には友達を好きになったことも、それが女性だったこともないから簡単にああしろこうしろだなんてとても言えないし、それはあなたにとっても失礼な気がするから大したことは出来そうにないわ」


 申し訳なさで頭を下げるが、彼女から出る丁寧な言葉は心をなでるように優しく、慈愛に溢れる声は聞いているだけで気持ちが楽になっていた。


「でもね」


 それ以上はなにもないと思って切り上げようかと考えていたところに、その一言でまた課長に意識が引き戻される。


「森野さんが今持っているその気持ちは大事にしなさい。誰かを慈しみ思いやる心はそう簡単に芽生えるものではないから、焦らずゆっくりとその相手のことを考えてみて。……今のあなたなら、何かしら答えをみつけられると信じているわ」


 何の見返りも求めない、芯の通った言葉が何度も胸を温かくする。

 その度に、抱えていた痛みが和らいでいく。

 こんなにも優しくしてくれる人に出会えたことに目頭が熱くなってしまい、思わず涙が零れそうになっていた。


「…………ありがとうございます」


 ここまで付き合ってくれた彼女に、深く頭を下げてお礼を言う。

 対して、気にしないでと返してくれるが感謝してもしきれないほどに支えてもらえて胸にあった迷いが少しだけ晴れていた。



 曇っていた心が、課長のおかげで先の光が道標のように照らし始める。

 ……今なら、三咲にも向き合ってちゃんと話が出来そうな、そんな気がしていた。

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