金魚と灯籠 66日目
「……本当に良いのかい?」
「はい」
会社の朝礼が済んでからすぐに工場長の元に向かい、指導役の件に対して承諾の意を伝える。
最初は意外そうに目を丸くしていた上司だけれど、私が話を引き受けてくれたことにほっとしたのか口から大きな息をこぼしていた。
「それじゃあ、来週からお願いするね」
細かいことは追々説明してくれるとのことなので、その時を待ちながら工場長に一礼をして、いつもの仕事場へと戻っていく。
奈緒の店を出た後、この件を受けるべきかもう一度考えてみたけれど、やはり踏ん切りがつかずまだ見ぬ後輩を不安にさせるんじゃないかと色々考えたりもしていた。
けれど、信頼する二人の言葉を信じてみようと思いこの変化を受け入れることにした。
この一歩が、人としてどう変わるかなんて想像は付かないし、今でも私で良いのかという不安は消えない。
しかし、立ち止まってばかりでは何も進まないのも事実だった。
「立ち止まってばかり、かぁ」
浮かんできた頭の中の声を口にして、その言葉を飲み込みながら作業の手を動かす。
昨日言われたことを気にしているのもあってか、今朝から『止まる』といった単語に過敏に反応してしまっていた。
次第にそこだけが反響を繰り返し、脳裏をよぎるのはやはり鈴音の姿だった。
彼女のことを『好き』と自覚してから、仲良く深い関係になれたらいいなと思ってはいたけれど、具体的にどうなりたかなんて考えたことは今まで一度もなかった。
ただそばにいて、笑顔でいてほしい。
何かあったら、力になってあげたい。
たったそれだけの気持ちで接しているからなのか、仲は深くなってきたと思っても結局は『友達』という枠を超えてはいない。
かといって、それ以上のはっきりとした未来なんて全然見えてこない。
こんなふわっとした感覚で、鈴音に私の声は届くのかな。
——もし、届かなかったら……今の繋がりはどうなるのかな。
全て、なかったことになるのかな。
届かなかった声を想像して、初めて身震いを覚える。
今の関係が壊れることに、また独りの時間に戻ることに胸が締め付けられる。
それほどまでに、鈴音は私にとってかけがえのない人になってしまっていた。
「……こんなこと、簡単には言えそうにないよ」
よくある恋愛漫画などで、振られた人が相手に関わろうとしない理由が少しだけ分かった気がしていた。
届かなかったら、元には戻れないんだ。
それならいっそ……と、臆病になっていく私が怯える。
好きだから。
大切だから。
一歩踏み出すのを躊躇ってしまう。
進む未来で後悔してほしくないと鈴音に願う自分が、まさか彼女との先に進むことに迷ってしまうとは、何ともひどい皮肉な話だった。
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