母と娘 56日目➁

 走る度に私たちを照らす明かりは少しずつ薄暗くなっていき、それに反するように人の数はどんどん増え、集合場所の駅ビル前が見えてきた頃には身動きすら取りづらいほどにごった返していた。

 その中を掻き分けて進み、鈴音の元へと急ぐ。

 

 

 二人の会話は、上手くいったのだろうか。

 身体は待ち合わせ場所へ向かいながらも、そんな好奇心が何度も脳裏にちらついていた。

 けれど、今はその気持ちに蓋をして、走ることだけに専念する。

 たとえそれが良くても悪くても、それを受け止める決意をした鈴音ならきっと乗り越えてくれる。

そのことを、他の誰よりも私が信じていた。



 やがて人通りも少なくなり、ようやく通勤で見慣れた光景が現れるようになる。

 そして、駅の改札口に繋がる扉の近くでは、鈴音が俯いて立っていた。


「鈴音!」


 私の声に気づき、はっとするように頭を上げる。

 僅かに見えた顔には涙が溜まっているように映っていたが、すぐに近づかれ分からなくなり、気づいた時には彼女の身体は私の胸の中に収まっていた。



 一瞬、何が起きたのか分からず頭が硬直していく。

 いきなり小さな身体が触れられるほどにまで迫り、すぐ下からは甘い香りがしていて、あの電車の時と同じぐらいの距離に速くなっていく心臓の音が鈴音に聞こえてしまいそうだった。



 急に身体へ飛び込んでくるものだから、通りがかる人の何人かは私たちのことが気になって振り返っている。

 それでも、鈴音は動じることはなく私の胸に顔を埋めて離そうとしない。

 次第に、街中から聞こえてくる夏の賑やかさに混ざってすすり泣く声がしていた。


「……どうだった?」


 おそるおそる訊ねる私に、鈴音は静かに答えてくれる。


「……言いたかったことは、全部伝えてきたよ。昔から感じていたことや、家を出ていった理由、それに今の生活のことも。それを話している間、母は何も言わずにただ聞いてくれていた」


 あのお母さんだから、てっきり何処かで口を挟んでくるかと思っていたのだが、そうはしていないらしい。

 それに喜ぶ反面、なおのこと鈴音の涙に悪い予感がしてしまっていた。


「でも、やっぱりお母さんにはそこまでして自分の道を行きたがる気持ちが理解できないって言われちゃった。……そして、もしこのまま今の生活を続けたいなら、二度と森野の門はくぐるなって」


 下された残酷な判決に、身体が戦慄していく。

 けれど、もしかしたらそれは母親なりの優しさかもしれなかった。



 自分たちの名前の大きさを一番理解している人だからこそ、鈴音の意思を尊重するなら二度と関わらないよう縁を切ってしまった方がお互いに不利益を被らなくて済む。

 そして、そのことにこれ以上何も話そうとしないのを察するに、おそらく鈴音はその条件をのんだようだ。

 彼女の母親がそこまで考えていたのかは分からないし、鈴音もこうなることを予想していたかどうかは当時の本人にしか分からない。



 しかし、もしこの結果が本当に娘のことを想ってとった行動なら、それはあまりにも悲しいものだった。



 ただ母に今の自分を知ってもらおうと歩み寄っていたはずなのに、こんなことになってしまった鈴音になんて声をかけたらいいのか分からず、押し寄せる感情を抑えようと私の胸の中でまだ涙をこぼし続けている。

 


 ——こんな結末になってしまうのなら、変に話し合わせようだなんてしない方が良かったのかな。



「……ありがとう、三咲」


 自分の行動に自信がなくなり、その怒りが自分に向きそうになるところで鈴音からお礼を告げられる。


「こんなことになったけど、ずっと逃げてきた母とようやく向き合えたと思うし、ちゃんと話だって最後まで聞いてくれた。ようやく、自分の気持ちに整理が付いたよ。——でも、今だけは」


 全てを受け止めるために、今もまだ胸の中で鈴音はぐちゃぐちゃになった感情と抗っている。

 それは小さな身体の彼女では耐えるのに負担が大きすぎて、支えるように自然に背中に手を回す。


「……お疲れ様」

「……ありがとう」


 気の利いた言葉にすらならない励ましにも、ちゃんと答えてくれながら私の腕の中でうずくまる。

 辺りはすっかり日が落ちていて、焼けるほどに熱かった日差しもようやく収まり再び穏やかな夜がやって来ていた。

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