母と娘 55日目➁
普段は穏やかな雰囲気の店内に緊張が走り、誰も物を言わせない威圧感だけが周囲に漂い始めていく。
この重苦しい空気の中では身動きすら取りづらく、幸いなのは私たち以外のお客さんがいないということだった。
「さぁ、帰るわよ」
毅然とした態度で鈴音を連れ戻そうとするがそれに頷くはずもなく、鋭い眼光に負けないほどの力強い目力で反抗していた。
「……ねぇ、お母さん。そんなに家の名前が大事なの? 今なんて、みんな家柄や通ってきた学校なんて関係なく自分の選んだ道を進んでるのよ。私にだって、何処で生きるかぐらいの権利はあるはずよ」
アパート前で言い争っていた時よりは落ち着いた口調で、ゆっくりと母親に訴えかける。
けれど、そんな意見に耳すら貸していなかったのかすぐに鈴音の反論の言葉が飛んできた。
「あなたは自分の生まれた家系の大きさを解ってはいないようね。森野という名前は、一生鈴音についてくるものなのよ。どんな道に行ったとしても、あなたは『森野電子工業の次女』という目で見られ続けることになる。そしてその影響力は、良くも悪くも周りに被害を与えることになるわ。……心当たりが、あるんじゃないかしら?」
そう言いながら、母親は私の方に視線を向ける。
きっとこの状況になっていることを暗に示唆しているのだろうが、生憎迷惑をかけられただなんて思ったことは今まで一度もない。
でも、お母さんの言っていることの意味が解らないわけでもなかった。
前に話してくれた時も、人から良い様に利用されたり訳もなく嫌われたりすることがあったと言っていたので、それだけの攻撃を受けるほどに彼女の一家は多くの人に知れ渡っている。
その内の一人が家を飛び出し、実家と比べて小さな会社で勤めていることがネットなどで広まりでもしたら、それこそ鈴音は悪い人たちから格好の餌食になってしまう。
ここまで何事もなく過ごしてこられたのも、彼女の苗字に似た人が一般的に多い事と今までメディアに姿を一切映してこなかったおかげなのかもしれない。
「そんなこと、昔から嫌というほど知ってる。そのせいで、友達と呼べる人なんて出来た事がなかったもの。だからって、私の意思を無視して良い理由になんかならない」
それでも鈴音は、なおも食い下がって次第に感情を露わにしていく。
「……ただの反抗心でしか動いていないあなたに、その名前を一人で背負って生きていけるはずがない」
冷たく鋭い一言は、娘に大きな衝撃を与え言葉に詰まらせてしまう。
「ちょっと! いくらなんでもそんな言い方——」
その光景を見ていられなくなった一葉が、椅子を擦る音を鳴らしながら立ち上がって今にも殴りかかりそうな態度で向かっていく。
「一葉。黙って座りなさい」
考えるより口が出るタイプの妹に鈴音の母親はまさに天敵のように映り、言い掛かろうとするのを見かねた私が、言葉で制する。
職場でも滅多に厳しい言い方なんてしないものだから、思ってた以上の大声に一葉の目が点になっていたけれど、咎める声にぴたりと止まり再び元の席に帰っていた。
妹の気持ちも鈴音にとっては有難いかもしれないが、今は出る幕のない人が行っても無駄に場を掻き乱してしまうだけだった。
「……やっぱり、昔から何言っても理解しようとしてくれないよね」
じっと我慢して聞いていた鈴音だが、自分の生き方を否定するような言い分に痺れを切らし、置いてあった鞄を掴む。
そこからお代だけテーブルに置いて、親と一切目を合わそうとせずに一人店を後にしようとしていた。
これは鈴音とお母さんの問題だから、どんな結果になってもその事実だけを受け止めることしか部外者の私には許されていない。
……でも、すれ違ったままで本当に良いのかな。
仲良くしろだなんて言えないし、どちらの考えに個人的感情で口を挟むことなんて、もっと出来ない。
それに、親と不仲以前の関係にある私が偉そうなことなんて言える道理もなかった。
それでも、鈴音の本心も伝わらないまま、お母さんの気持ちも届かないままで、二人は一生関わらず過ごしてしまっていいのだろうか。
——その未来に、鈴音は後悔しないだろうか。
もし、まだ近くで話し合える時間があるのなら。
伝えたいことすら言えず、この先ずっと悔やみ続けるくらいなら。
まだ、彼女の母親が娘と目を合わせてくれるなら。
立ち去ろうとする鈴音を前に、無意識に私は手を引いて彼女を引き止める。
「…………三咲?」
完全に場違いな人物の登場に息を呑んでしまうが、それでも手は離さずにいた。
「鈴音、ここで逃げたらきっと後悔すると思う。まだ、お母さんに伝えきれてないことがあるでしょ」
強く、そして諭すようにゆっくりと喋り瞳は逸らさない。その姿勢としっかり肩を掴まれている鈴音は、私から逃げるように目を泳がせていた。
例え後からこのことで嫌われたとしても、まだ向き合えるタイミングで逃げたことに後悔だけはしてほしくはなかった。
「大人になっても一時の感情に流されて本当のことすら言えずにいるだなんて……。本当に、貴方はまだまだ未熟よ」
そこへ、容赦のない母親からの言葉が飛んでくる。
遠慮の欠片すらない一言に鈴音の眉間に再び皺が寄りそうになるが、それを私が手で押さえて止める。
本当は、こういうことは私が言うべきじゃないと理解していながら、母親の前に立って静かな怒りを押し殺して彼女の前に進み出ていた。
「…………大人になったからこそ、言えないこともあると思います」
その発言に何か言い返してくることはなかったが、怪訝な表情がより濃く現れて不快なのが一目で分かる。
けれど、そんなことに構っていられず話を続けていた。
「社会に出て色んなことを知るようになったから、会社では上司や同僚の機嫌を窺ってしまうし、アパートではお隣さんの顔色を見てしまう。それに、親が経験してきた辛さが少しは分かるようになるから、昔みたいに身勝手な我儘なんて言えなくなって余計に本当のことを隠してしまうんです」
自分でそのことを口にして、不意に両親のことが思い出されていく。
ろくに相手にされたことはなかったし、どんな結果を残しても褒めてくれることは一度もなかった。
それでも、私の親であることに変わりはない。
今までどんな気持ちで接していたのかは分からないし、そこはまだ知りたいとは思わない。
少なくとも、一人の社会人としての苦しみや重たさぐらいには寄り添えるような気はするから、今更恨もうだなんて思ってなんかいなかった。
「だから、もう一度だけ話してみませんか。……今度は、全てを聞いて」
私が今言える全てを伝えて、軽く一礼をして下がる。
これでどう思うかは、後は本人次第だった。
「それなら、うちの店使いなよ。どうせ明日は休みの予定だし、裏通りで周辺には誰もいないから最悪喧嘩になっても問題ないよ」
そこへ、便乗するように奈緒がそんなことを言いだしてくる。
突然の提案に、私と鈴音は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしながら聞いていた。
「いいの? そんなことして」
「戸締りさえちゃんとしてくれたら大丈夫よ。それに、ここまで話聞いて今更知らん顔なんて出来るわけないでしょ」
豪快にそう話す奈緒は、にかっと大きく笑って私たちにブイサインを出す。
わざわざ人のために店を貸し切りにするだなんて思い切ったことをするけれど、その優しさは確かに鈴音に届いていて心を打っているようだった。
その間も、彼女のお母さんは表情を変えることもなければ口を挟むこともなく淡々とこのやり取りを眺めている。
鈴音と違って心が読みにくい彼女が今何を考えているのかまでは分からないが、少しだけさっきまでの険しい表情が鳴りを潜めているように映っていた。
やがて、彼女の母が重い口を開きだしていく。
「……鈴音。もしあなたが本当に私たちと向き合うつもりなら、明日もう一度ここに来なさい。その代わり、どんな結果になっても文句は言わないことね」
今までの態度からして、てっきりこんな店なんて言いだすかと思っていたが意外な返答がきて呆気にとられてしまう。
そして、それだけを言い残すと鈴音の母親は店を去っていた。
「偉そうにあんなこと言ってるけど、ここ私の店だからね」
さっきまでいた威圧的な空間に向かって奈緒がそう言い放ち、それを皮切りに一気に元の穏やかな雰囲気に戻りだしていた。
それを合図に、全員の口から緊張の糸の解けた息が漏れる。
場合によっては騒動にもなりかけていたが、ひとまずは何事も起きることなくひと段落が付けてホッとしていた。
流石に皆気疲れしてしまったようで、あの一葉でさえ何も言わずにへたり込んでしまっている。
あれだけの存在感を放つ人の下で働くのは、毎日気が滅入りそうだな。
「………………みんな、ごめんなさい」
解けた緊張の中で、一人罪悪感にまみれた鈴音は深く頭を下げて謝っている。
その気持ちはよほど強いのだろう、顔はずっと項垂れて時折肩を揺らしながら許されないつもりでその場に立っているみたいだ。
「こういうトラブルは時々あるから、気にしなくて大丈夫だよ」
気丈に振舞う奈緒の力で、重たくなった空気は幾分か気楽になっている。
その声におそるおそる顔を上げ、様子を窺っている鈴音に今度は私が言葉を掛ける。
「後は、鈴音次第だよ」
私も奈緒を見習って笑って接しているが、正直このやり方で合っているかはまだ自信はない。
それに、これ以上の励ましや慰めは意味がないように思えてしまって、他に上手く言えないことが少しもどかしい。
けれど、私たちの気持ちは伝わってはいるみたいで、涙目になりながらでも私たちに顔を上げる。
「…………ありがとう」
目は腫れていて、様々な感情が折り重なって、今にも心が潰れてしまいそうな状況の中で告げる感謝の言葉は掠れてしまい、近くでなければ上手く聞き取れないほどだった。
それでも、僅かな安らぎからくる屈託のない笑顔を見せてくれただけで、今は十分に報われた気持ちにさせてくれていた。
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