母と娘 52日目①
朝見た天気予報では、今日の夜も熱くなると放送されていたのだが、日が沈んでからは熱さなんて感じないほどに冷たい夜風が部屋を吹き抜けていく。
その風を独り占めするように窓際に座る妹を台所から眺めながら、一人夕飯の片付けに勤しんでいた。
汚れた皿を一枚ずつ丁寧に洗い落とす一連の流れは、もはや無意識の中でも継続出来ていて、最近では家事をしている間でも頭の中は空白になることが多かった。
しかし、今の私にはもうじき来るであろう人物のことを考えるのに必死で、脳内の動きを休ませる余裕など持ち合わせてはいなかった。
夕方、急に電話が掛かって来たかと思えば、いきなり直接会って話したいことがあると言われたので、今かと待つ心臓の鼓動は速くなっている。
どうしてこっちに来ようとしているのかまでは分からないが、この数日の間に色々合ったので何を伝えようとしているのかは大体検討が付いている。
それ自体は私も気になっていることなので、もしかしたら何か力になれるヒントが見つかるかもしれなかった。
けれど、鈴音はそれを話して本当に大丈夫なのだろうか。
今は個人的な好奇心なんかよりも、彼女自身が安静にしていられることの方がよっぽど重要だった。
家事を粗方済ませたところで、部屋のチャイムが大きく鳴り響く。
「もしかして、鈴音さんじゃない?」
窓から入る清涼を独り占めしている一葉が、ドアを一瞥してから私にそう告げてくる。
それは私もそうではないかと感じていて、声や覗き穴で確認したわけではないが一緒にいて受け取っていた雰囲気が彼女を思わせるものだった。
すぐに扉を開けると、案の定そこには鈴音が立っている。
「……その、こんばんは」
「鈴音さんこんばんは!」
「あんたはいいから。さぁ、入って」
友達の来訪にすぐさま駆けつけて触れようとする妹を抑えつけ、部屋に通してリビングへと連れていく。
それから麦茶を用意して渡してから、私も向かいの席に腰をおろしていた。
「ごめんね。急に来ちゃって」
「それは全然良いよ。それで、話って?」
ここまできて遠回しな聞き方をするのもよくはない気がするので、単刀直入に本題に触れていく。
しかし、いきなり切り込んだのはまずかったのか、気まずそうに口を閉ざしてしまう。
慌てて弁明しようとするが、間を置かず息を吐いてから改めて私に顔を向けていた。
「聞いてほしいことがあるの。……私の、過去のこと」
彼女の口から出た一言に、耳を疑う。
それは、誰にも踏み入れさせることを許さない彼女の領域だった。
それを自ら話すということは、この数日間で自分の過去に対して想うところがあったのだろう。
でも、その過去に触れるのが、よりによって私であっていいのだろうか。
ずっと悩んで苦しみ続けてきた記憶に、私は少しでも寄り添うことが出来るのだろうか。
「それは、本当に聞いてもいいの?」
彼女なりに気持ちを固めてここに来てくれているだろうが、今一度訊ねてみる。
もし、これが私を巻き込んでしまったことに対する負い目からくるものなら、私は耳を塞ぐつもりでいた。
しかし、目の前にいる鈴音は私の問いに静かに笑っている。
「相変わらず優しいね、三咲は。……大丈夫だよ」
優しい声で答える彼女の瞳には迷いがなく、しっかりと私のことを見据えていた。
「一葉ちゃんも、良かったら一緒に」
その矛先は遠くで事を見守っていた一葉にも向けられ、その場で声をかけられる。
「良いんですか? 同席しても」
ただならぬ空気にさすがに座っていいのか躊躇していたが、それにもゆっくり頷いて応えてみせる。
その返事に妹も納得したようで、おずおずと私の隣に腰を落としていた。
並んで座り、鈴音を待つ姿に『ありがとう』とだけ小さく呟いてから、彼女は自身の過去を語り始めていた。
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