母と娘 51日目

 画面に向かいあいながら進めていた入力作業も、終業のベルが鳴るのと一緒にほとんど終わらせ、ひと段落着いた仕事に身体を大きく伸ばす。

 そうしてリラックスしている間に、明日からお盆休みに入るのを楽しみにしていた社員は意気揚々と帰路に着き、あっという間に部署内の大半がいなくなっていた。

 ようやくやってきた連休を前にしても一向に気分が上がらず、何かを忘れるようにずっと事務仕事に打ち込んでいたのは、周囲を見回しても私ぐらいなものだった。



 あれから母がアパートに来ることはなく、今のところは平和な日々を送っている。

 けれど、代々続いている家業を支えるのに躍起になり自分の考えとプライドは絶対曲げない親のことだから、このまま何も起きないはずがなく、再びやってくることは目に見えていた。

 そうなってしまったら、最悪の場合遠くへ引っ越すことも検討しないといけないかもしれない。

 仕事だって、今の会社から変えないといけない。

 他人からしたら大げさに見えるかもしれないが、私にはそうまでしてでもあの人たちと関わりなんて持ちたくはなかった。



「また何か悩み事?」


 今後のことをあれこれ考えていたところに、後ろからいきなり課長の声がしたので驚いてその場で立ち上がり、回れ右をして振り返る。


「お、お疲れ様です!」

「そんなにかしこまらなくてもいいわよ。それより、この二日間元気がなかったけど何かあったの?」


 連休前の仕事中は、精一杯笑って母のことを想い出さないように誤魔化していたのだけれど、上司には気付かれていたみたいで心配する視線が私に突き刺さっていく。

 


 またってことは、この前の悪夢を見ていた時も気付いていたのかな。



 意外と出やすい自分の感情に少し恥ずかしさを覚えながら、向かい合いになった課長としばらく無言の時間が続く。

 その間も、相手は何も言わず私の言葉を黙って待ってくれていた。

 

「……ご心配かけてすみません。でも、個人的なことなので」


 次に私の口から出た言葉は、『大丈夫です』という一言だった。



 ここまで見透かされていても、本当のことが言えない。

 相談したくても、人に自分の生い立ちを伝えることにまだ抵抗が残ってしてしまう。

 そのことで上司や先輩が気にかけてくれていると分かっていても、それに上手く頼れない自分に嫌気すら感じてしまっていた。



「そう……。それなら、これ以上私から聞くことは何もないわ」


 それは優しさからなのか、それとも呆れてしまっているのか、課長は私の返事にそれだけ言うと話を切り上げてしまう。

 本音が言えないことに申し訳なさを感じながら、帰り支度に取り掛かろうとして再度名前を呼ばれた。


「森野さん、私たちは誰だって悩むし落ち込んだりするわ。そのことを気にしすぎるのも良くはないし、無理して笑うのも身体に毒よ。……あなたが、ずっと真面目にやってきていることは知っている。だからこそ、その悩みを抱え込まないで。人間なんて弱くて当たり前で、だからこそ一人じゃないのよ」


 課長は、自分の言いたいことだけを全て伝えてから最後に『お疲れ様』とだけ付け足して先に会社を出ていく。

 私より長く生きてきた人生の先輩だからこそ、多くのことを聞かずともそれだけのことが言える経験と、相手を気遣いながらもその奥にある信頼に心が暖かくなってきて目頭が熱くなっていた。

 

 

 一人じゃ、ないんだ。


 

 考えてみれば、野中さんだって入社してからずっと何かあればすぐに声をかけてくれている。

 課長も、普段は仕事もプライベートにも口出しはしないけど、いざという時にはこうして支えてくれていることを実感できて嬉しさがこみ上げていた。



 それに、三咲も傍にいてくれる。



 彼女のことを想うと、すぐに昨日のことが脳裏をよぎってしまう。

 いきなり抱きしめられたのには流石に驚いて思い出すだけでも顔が赤くなりそうだけど、彼女の優しさが伝わってきて苦しかった心が少し和らいでくれた。


 それだけじゃない。

 三咲は、何時だって困っていたら私を助けてくれていた。


 初めて会った時は定期を拾ってくれて、悪夢でうなされていた時はただ隣にいてくれて、ブレーカーが壊れた時は一週間も泊めてくれた。

 そして今回だって、自分に出来ることで支えようとしてくれている。

 昔から仲が良かったわけでもなければ、同じ職場というわけでもなく、ましてやお互いに利害関係があるような間柄でもない。

 純粋に、一人の友達として私をずっと励まし続けてくれた。

 


 その気持ちに——応えたい。

 課長や先輩に上手く言えなくても、せめて三咲にだけは私のことをちゃんと知ってもらいたい。

 それで嫌われたとしても、後悔なんてしない。


 

 あの時の一葉ちゃんも、代わりだったとはいえこんな気持ちだったのかな。


 自分の過去に背を向けないために、そして私の傍にいてくれる三咲に今までのことをちゃんと話したくて、誰もいない社内でスマホを出して電話をかける。



「三咲? ごめんね、急にかけて。……今日、そっちにまたお邪魔してもいいかな?」

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