母と娘 50日目

 この季節の朝は、決まってセミの集団が騒音に近いぐらいの鳴き声を聴かせてくる。

 しかし、聴かされる側としてはうんざりすることの方が多く、それがほぼ一日中続くのだからあまり心地が良いものではない。

 その大合唱を背景に、電車を待っている間何かを振り返るように瞼をゆっくりと閉じる。

 そうするとすぐに昨日一緒だった鈴音の顔が浮かんでくるが、それは優しさに溢れたものではなく今にも攻撃しそうなほどに鋭い剣幕で、眼前の相手をずっと威嚇している。

 今まで見たことのない強い感情と迫力に圧倒されていた私は、何も出来ないままその表情と光景だけが目に焼き付いていた。



* * *



 一触即発の現場に成す術のない私はどうなるか分からない状況を静観することしかできす、反対側の彼女の大家さんは険悪な親子のいがみ合いに畏怖の念を抱きながら見つめていた。


「勝手に家を出て二年間も連絡を寄越さないで何をしてるかと思えば、こんな辺鄙な場所で暮らしていたなんて……。一族の血を引く者として恥ずかしくはないのかしら」

「そんなことあんたには関係ないでしょ。それに、一族がどうとかいい加減そんな古臭いものを私に押し付けないでって前にも言ったじゃない」


 荒々しい言葉遣いに、睨みつける鋭い目つき。

 考えもしなかった鈴音の攻撃的な態度に、見ているこっちの背筋が凍りつきそうで思わず生唾を飲んでしまう。



 でも、どうしてだろう。

 その一方で、彼女の背中から悲しみを感じていたのは。



「私は、私なりに生きたいの。だからーー」

「そんなことが家を出る理由になりますか。あなたは森野の人間として、兄達と一緒に家督を継いでもらいます。その為に知識も教養も与えてきたのだから、義務にはしっかりと応えなさい」


 鈴音のお母さんは言葉を思いっきり遮り、それだけ告げると手を強引に引っ張って連れていこうとする。それを振り払おうと必死に抵抗し続けるが、小柄な彼女では力の差があり過ぎて身体は引きずられるばかりだった。


「待って! 話を聞いて!」


 鈴音の訴えに、一切耳を貸さずに握る力がさらに強くなり彼女は苦悶の表情を浮かべている。

 それに対して私は、あまりの急展開に頭の整理が追いつけず、硬直して身動きが取れずにいた。

 

 動けと命じる本能と、部外者が立ち入っていいのかという理性の迷いが、私の行動をどんどん遅くさせてしまう。



 早くしないと……!



 そこに待ったの手をかけたのは、彼女の大家さんだった。



「大家、さん?」

「すみません。せっかく来てもらって申し訳ないのですが、今日はお引き取りいただいてもよろしいでしょうか」


 その一言に、母親の目線の相手は娘から大家さんへと変わり、怪訝な表情をしながら獲物を捕らえた蛇のような眼光を向ける。

 しかし、今の彼女は一切怯むこともなければ手を離すこともしなかった。


「あなたには関係ない話のはずよ。そちらこそ、お下がりになっては?」

「そうは言いましても、森野さんはまだうちの住人ですから。退居するにしても、書いてもらわないといけない本人書類などを用意する必要がありますので、今夜すぐにというわけには行きません」


 さっきまでの怯えっぷりは何処かへ消え去り、弁をたてて悠然と立ち向かう姿勢はこの中で一番の年長者としての威厳をみせつける。

 なにより、管理人として怯まない態度が鈴音の母への一定の圧力になっていた。


「……出直すわ」


 流石に武が悪いと感じたのか引いていた手を離し、一人早足で過ぎ去っていく。

 その後ろ姿に安堵した一同は、一斉に大きなため息をこぼしていた。


「ありがとう、ございます」

「本当のことを言っただけよ」


 すぐに大家に向き直った鈴音はお礼を言うが、当然のことのようにしたといわんばかりにあしらって、アパートの中へ戻っていく。

 それを見送ってから、今度は私に身体を向ける。


「三咲も、ここまでありがとう。…………あと、あんな姿見せちゃってごめん」

「それは、大丈夫だよ」


 人前で感情を爆発させていたことに対する申し訳なさと恥ずかしさもあったせいで、最後の方の声は萎んでしまっている。

 項垂れる彼女に、大丈夫となるべく気丈に振舞って言い聞かせる。実際、驚きはしたけれど誰にでも感情はあるものだから気になるほどのものではなかった。



 それ以上に、私には鈴音の過去の方が気になっていた。


 

「……じゃあ、また明日」

「うん。また明日」


 お互いに別れの言葉を口にして、私は来た道を引き返していく。

 その道中、鈴音の懇願するような叫びが頭からずっと離れずにいた。



* * *



 それから数時間後、私たちは再び朝の通勤の車内で再会をする。


「おはよう、鈴音」

「……おはよう、三咲」


 扉の向こうから来た鈴音は、昨日のこと気にして眠れなかったのか目には小さな隈が出来ていて、声も何処か沈んでしまっている。

 今は昨日のことに関することは聞くわけにはいかず、話しにくい雰囲気だけが私たちの中で広がってしまい、すぐ隣にいるはずなのに遠くに感じてしまっていた。


 

 今、鈴音がどんな気持ちでここにいるのか、それは私には分からない。

 確かに昨夜、抱えていた過去の片鱗を見たけれどそれだけで理解を示すのはあまりにもおこがましく、人の傷付いた部分になんてそう簡単に触れられるはずもない。

 それでも、落ち込む大切な人に何かしたくてかける言葉を探すけれど、どれもうわ言のようになってしまってまるで意味がない。

 

 このまま、何も出来ないのかな。


 そう考えてしまうだけで、個人的な悔しさが込み上げていた。



 互いに会話のないまましばらく時間が経ち、降りる駅が近づいてきたところで急に電車が揺れて大きくバランスを崩してしまう。

 私はつり革を握っていたからまだ良かったが、隣の鈴音は乗ってから何も掴んでいなかったので今にも転びそうになっていた。



 その窮地に、声をあげるよりも先に手が伸び、彼女の手を掴む。



 間一髪のところで間に合ったので転ぶこともなければ大きな怪我もなく、支えながら再び隣で立っていた。


「……ありがとう」


 咄嗟のことで反応が遅れてしまっていたが、きちんとお礼の言葉は口にしていた。

 けれど、目は昨日と同じように宙を舞っているかのように焦点が合わず、顔もあまり笑っていないので胸に全く響いてこない。





 そんな顔が、そんな言葉が聞きたいわけじゃない。





 引いた手を繋いだまま、電車の揺れに乗じて彼女を自分の方へと強く引き寄せる。

 身体にすっぽりと収まった鈴音は混乱しているようで、これが事故か故意なのか分からず私の顔を窺っていた。

 そのまま空いた手を腰に回して、扉の死角に隠れてそっと抱きしめる。


「…………そばに、いるから」


 こんなことしか言えなくて、これで良いのかなんて分からず私も混乱しそうになる。


 それでも私の想いは届いてくれたのか、腕の中にいる鈴音は小さな顔を縦に振って頷いていた。

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