過去と現在 32日目
夏の暑さもいよいよ本格的になり、夕方でも蝉の鳴き声はその勢いを衰えさせていない。
それだけでも動く気力を失ってしまうけれど、仕事には行かないと今後の生活に支障が出るのでこんな時でも出かけないといけないのが少し億劫だった。
子の時間にもなると炎天下も少しは収まり、歩きやすくなった市街地を人ごみを避けるように進んで駅の改札に向かう。
今日も一人で帰ることになりそうと朧げに思いながら定期を取り出していると、遠くで見慣れた人が改札前で立っていた。
「……鈴音?」
まだ姿しか見えていないけれど、今の私にはそれだけでも彼女と理解できるほどに分かるものになっていた。
出勤する朝はよく会って駅に着くまで話したりするけれど、帰りはお互い仕事の都合もあって基本的には一緒に電車に乗る約束などはしていない。
いきなり駆け寄って気を使わせるも悪いし、それだと何だか会いたがっているようにもとらえられて変に意識させてしまうかもしれないので、偶然を装いながらゆっくり近づいていた。
徐々に近くなる距離に、また鼓動が早くなりだしていく。
そのはやる気持ちを抑えながら、どんなことを話そうか色々案を巡らせていた。
しかし、鈴音だと分かるほどの位置にまで来て、騒がしい心臓の音は急に静まりだす。
素顔が誰から見ても分かるほどになって、彼女は今まで見たことがないぐらいに暗い表情をしていた。
顔を見た直後、私の視線に気づいたのか鈴音はこちらに振り向き、すぐにいつもの笑顔を向けてくれていた。
「三咲、お疲れさま」
元気に手を振って私を待ってくれる彼女の元に、変わらない足取りで近づいていく。
「お疲れ。そっちも今帰り?」
「そうだよ。珍しいね、時間が合うのって」
すぐ傍でみればいつもと変わらない表情でいてくれるのが、ほんのわずかに心に安らぎを与えてくれる。
しかし、その程度であの表情が消えるはずもなく、焼き付いた光景がすぐに舞い戻っていた。
何があったんだろう。
明るいイメージしかなかった鈴音からは考えることすらなかった顔をしていたのが予想外すぎて、胸の内が不安一色になりうち問いただしてしまいそうになる。
「鈴音、あの——」
「せっかく一緒になれたから、今日は一緒に帰りませんか?」
「……うん、そうだね」
一瞬口から出かかった言葉を遮るかのように、彼女と同じタイミングで台詞が被り丸め込まれるようにその提案に頷く。
今週に入ってから何か忙しそうにしていることを言っていたので、きっとそれのせいなのだとは思うけれど、脳裏に焼き付くほどの表情になるとは思いもしていなかった。
何か悩んでいるのなら、聞いてあげたい。
そうは思っていても、彼女の負の領域に私が安々と入って許されるのか不安でもあった。
私は鈴音の過去を知っているわけでもなければ、職場での人間関係も聞いたことがない。
そんな状態で悩みを聞いても果たして楽になってくれるのか、最悪無神経なことになってしまわないか、デリケートな問題な分いくつも不安が付きまとって一歩踏み込む足を躊躇させていた。
「三咲、行こう?」
心配する私の思考を遮るように、鈴音はそう誘って前を行く。
「…………ごめん。すぐ行く」
あの表情について訊ねていいのか分からず、結局今日はその気持ちに触れないまますぐに彼女と一緒に改札口をくぐっていた。
何処か無理に笑っているようにすら映る鈴音の顔を前に、気になる友達の変化に私はまだそこに触れるだけの関係すらも築けていないのだと、その事実に悔やみながら小さく拳をより強く握って一緒に電車を待っていた。
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