点と線 14日目
遡ること数時間前。
本来なら、今日の仕事は午前中の間に全て終わっているはずだった。
しかし、出社して早々にお客様の方から今日の説明を午前から午後へ、午後から夕方へと変更してほしいという電話が何度も掛かってきて、最終的に全て終わった頃には外は真っ暗になっていた。
こうなることは流石に予想していなかったので、大した仕事量じゃないとはいえ本来の休日を一日潰れてしまったと思うと少し気が滅入ってしまう。
終電まではまだ時間もあるので、たまにはまだ知らないお店にでも入って鬱憤を晴らそうと普段は通らない廃れた路地裏に足を進めていた。
すると、通りのすぐ近くで一件だけ明かりのついているお店が目に飛び込んできた。
看板にはカフェ&バーと書いてあって、入り口近くにある黒板にはメニューもあったのでみてみると、どれも美味しそうな料理ばかりが並んでいたので好奇心でここに入ろうとガラス戸を大きく引いて中へ進んでみる。
入ってすぐにあるカウンター席には、突っ伏すように丸くなっているお客さんが一人座っていた。
よく見てみると、最近知り合った人と顔や背格好がよく似ていて、更に目を凝らして注視する。何もかもが一致してくる。
そこには、酔っぱらって眠っている三ヶ島さんが小さな寝息を立てて心地よさそうにしていた。
* * *
まさかここで出会うと思っていなかった人が隣に座っていて、自分が酔って寝ている姿まで見られてしまったものだから、気まずさが増して声をかけづらい。
それは彼女も同じみたいで、さっきから落ち着かない様子でずっとそわそわしていた。
「…………ここって、よく来るんですか?」
沈黙に耐えかねた森野さんから、そう訊ねられる。
「週に一回ぐらいは」
「そうなんですね……」
短くそれだけ答えると、相槌だけを打ってくれて再び沈黙の時間が始まる。
気まずい。
何処かに助けを求めるように視線を動かすが店内には私たちしかおらず、必然的にマスターと目がかち合ってしまう。
けれど、彼女は顎でしゃくってそんなことをしている暇があるなら森野さんと向き合えと暗に指し示していた。
それと同時に、今までのことが一気に蘇ってくる。
このまま何も言わずに、やり過ごしてしまっていいのだろうか。
……言いわけないじゃないか。
そんなの、何も解決しないよね。
マスターの姿に少しだけ後押しを貰って、改めて森野さんに声をかける。
「……ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな?」
私の言葉に何度か瞬きをして様子を窺っていたけど、すぐに頷いて応えてくれた。
「私、本当は読書って得意じゃないんだ。そもそも、今まで趣味とか周りの人とかに興味を持ったこともなくて、そんなのなくてもいいってずっと思ってた。だから……嘘ついて、ごめんなさい」
上手く言葉になったかは分からないが、ようやく本当のことを打ち明けて深く頭を下げる。
些細な事だって、見知らぬ誰かが言うかもしれない。
大人になれば、嘘の一つや二つあって当然だと偉い人は説くかもしれない。
それでも私は、彼女にだけは正直でありたい。
社会の歯車の中で偶然出会えたことを、建前やお世辞で塗り固めたくはないから。
「……それなら」
全てを聞いていた森野さんは、しばらく私の言ったことを噛みしめるようにしばらく沈黙していたけれど、やがて重たい口をゆっくりと開いていく。
「これから見つかるといいですね」
おそるおそる顔をあげるとそこにはにこやかに笑う彼女がいて、責めるわけでも失望するわけでもなくこうある私をただ静かに受け入れてくれていた。
その態度に呆気にとられてしまいぼんやりと彼女を見つめていると、森野さんは言葉を続ける。
「嘘をつかれたことはショックだけど、でも皆が同じように趣味や好きなものがあるわけじゃないし、今はなくてもこれから出来るかもしれないから」
何の迷いも躊躇いもなくそう言いきれる彼女が私には眩しくて、今まで小さいと思っていた背が急に大きく見えてしまう。
やっぱり、彼女と会えてよかった。
「……ありがとう、森野さん」
皆が寝静まり返った小さな街の小さなお店の一角で、私たちの距離は少しだけ近づくことができたような気がしていた。
* * *
それからしばらくはあのバーで二人揃って他愛もない会話を続け、終電が差し迫ったころになってマスターにお礼を言って外に出る。
もうすぐ日付が変わろうとしているせいか、空には星が次々と輝き始めていた。
「よければなんですけど」
軽い足取りで先へと進む森野さんが、急に立ち止まって振り返る。
どうしたのかと疑問に思う私とは反対に、彼女は何やら楽しそうに笑っていた。
「これからは名前で呼びませんか? いつまでも苗字じゃよそよそしいし、何より同じ歳なんですから気楽にやりましょうよ、三咲」
唐突な提案ではあったけど、言われてみれば確かにそうだった。
今までは他社でまだ面識が少ないからという理由で自然に苗字呼びをしていたけれど、もうそんな遠慮をする間柄ではなくなってきている。
「じゃあ、そうするね。鈴音」
口にしてみて、慣れていないせいかまだ少し抵抗があった。
けれど、不思議と胸の奥が温かくなってきて違和感などはまったくなかった。
それは鈴音も同じみたいで、まだにこにこしながら先を歩いている。
その背中に少しでも並べれるように、私は小走りで後を追いかけていた。
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