第3話 天使は常に裸

 朝、起きたらすべて夢物語でした――なんてことはなく、俺は真っ白な景色とともに目が覚めた。

 このバニラ館では、朝食は出てこない。まだまだ食べ盛りの22歳にとってはとてもつらいことだ。

 欠伸をしても、真っ白な壁が音を吸収する。代わりに鳥のさえずりがひっそりと入ってくる。なんだか澄んだ空気の匂いも漂ってくる。

 空腹に堪えながらも立ち上がると、白色ローテーブルの上に置手紙があった。

 ――幸紀くんへ、今日からの勤務開始となります。勤務内容は隣の部屋にいる孤児の世話全般です。孤児側の部屋には、ワンルーム・便所・風呂場のほかに、それぞれの子供たちに応じたおもちゃが置かれたプレイルームがあります。なので、お世話というよりは、孤児が逃げないような監視が主となります。説明は以上ですが何かわからないことがあれば、部屋のスピーカーに向かって話しかけてください。僕がそのスピーカーを通して返事をします。それじゃあ、勤務がんばってね。 バニラ館院長より

 長々と勤務内容が書かれた紙を読んだ。やけに丁寧な敬語で書かれていたため、少し何とも言えぬ奇妙さを覚えた。

 紙を手に、部屋の四隅をみる。すると、窓とトイレの壁でつくられた角の天井に、これもまた白いごついカメラのようなものを目にした。これって、本当にこっちの声が聞こえているのかな、と思い更けていると、スピーカーから院長の声が発せられた。

 「おはよう、幸紀くん。昨日はよく眠れたかい」急な院長の声に、ビックリはしたものの、寝起きだったため、アニメみたいな反応は出来なかった。「おやおや、あんまり驚かないんだね。ビックリさせようと思ったのに」

 「何の用だよ」俺はそう突っ返した。

 「そんなカリカリしないでよ。君と僕の仲じゃないか」

 「あんたとの間にゃ、なんもなーよ」

 「ひどいなぁ、僕のこと覚えてないなんて。まぁ、いいや。そうそう、子どものいる部屋へは君からみて右の扉から入れるよ。それじゃあ、勤務がんばってね」

 ブッッ――

 置手紙の終わりと同じ文を言って、院長の声が切れた。朝から、あの能天気な声をきくのは疲れるが、おかげで状況は整理できた。俺からみて奥の壁にある扉が、トイレとバスルームにつながる扉。右の奥に見える扉が、出口につながる扉。そして、右を向いて見えるのが、子どものいる部屋につながる扉。

 朝食もなく、娯楽もないこの部屋にいるのもストレスなため、俺は早々と隣の勤務地への扉に手をかけた。

 ガラガラ―

 思った以上に扉が軽く、大きな音が鳴る。

 「引き戸か…」

 大きな音で子どもを起こしてしまったのではないかと、不安になる。バッと、部屋のど真ん中にあるベッドに目を向ける。

 記憶の重箱の底にある、雪の記憶。いつ見たかも、いつであったかもわからない。ただ、あの時見た雪野の景色のように、儚くて、寂しげで、触れたら壊れてしまいそうな存在の子どもがベッドから状態だけ起こして、こちらのほうを眺めていた。

 一瞬、目が合った。

 「あ、えと、そのー。」つい恥ずかしくて、目をそらす。「あ、あの、今日から君のお世話をする、こ、幸紀。黒澤幸紀、です」

 幼気な天使と会話している感じだ。どう会話していいか、分からない。

 「こっち来て」

 天使からのお声がかかった。俺はその言葉に愚直に従う。一歩一歩が、とても軽い。吸い込まれながら、ベッドに歩いていく。

 目の前に天使がいる。黒髪で、目はぱっちり大きく、唇がうすい。

 「座って」

 声は天使というより、インキュバスが誘惑するときの色っぽさがある。

 天使の右手が俺の肩をなでる。左手が俺の顔に添えられて、引き寄せられた。唇と唇が重なり合う。天使の肩をつかみ、引きはがす。

 「え、なに、どういうこと」俺は何が起きたのかもわからなかった。

 「なにって、キスだよ。知らないの?」

 知っているから動揺しないという話ではない。突然、キスされたから驚いている。そもそも俺にとってファーストキスだった。頭のなかは、幸福ホルモンでいっぱいにはなった。

 「そもそも、大切な人以外にキ、キスとかはダメだろ!」

 つい慌てて童貞臭いセリフを放ってしまった。天使は見たところ、十代そこらだったため、知らず知らずのうちに親の気持ちになってしまう。

 「あ、そう」天使はつまらなさそうに答える。「俺は、イチゴ。よろしくね、童貞おにいさん」

 「よろしく。そ、それと、俺は童貞じゃないし…」

 イチゴは、俺の言葉を聞いて、笑っていた。童貞臭いなぁ、とでも思ったのだろう。反論すればするほど、俺の立場が危うくなる。これ以上は、何も言わないことにした。

 「っん///」イチゴの唇がまた触れた。童貞っぽい俺の反応に、イチゴはベッドの上で小悪魔のように笑い転げている。俺とイチゴの出会いは、突然のキスから始まりを迎えたのだった。

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