エピソード1:エデンの煙-3

 要件を伝えると「すぐ向かう」とだけ返事があり、電話は切れた。駅の反対口にいるみたいだから5分くらいで着くだろう。

 さて、それまでこの状況を何とかしなければ……。私はひとつ、ため息をついた。


 「おい!お前、聞いてんのか!?」


 店内では泥酔した男がしつこく喚き散らしている。15分程前、突然バーカウンターに拳を叩きつけると、担当していた女の子へいちゃもんを付けだした。私は奥の席で接客していたので話の内容までは分からなかったが、どうやら自分が進めた酒を飲み切れない事に腹を立てたようだった。

ご馳走になる以上、頂いた酒は飲み干すのがマナーだ。しかし時折、度数の高い酒ばかりを注文し女の子が潰れるまで飲ませたがる客がいる。女の子達には普段から自分の限界は超えないように言ってあるが、中には無理強いする客もいる為、稀にこういったトラブルが起こってしまう。


 「あんた、ちょっと止めときなよ」

 中央の席にいた常連さんが助け舟を出してくれるも、


 「うるせえ!お前には関係ないだろ!!」

 と一蹴され、引き下がってしまった。


 こちらとしてもお客さん同士のトラブルは避けたいので、仲裁しようとした常連さんに小声で「ありがとうございます、こちらで何とかするので大丈夫ですよ」と伝えた。「ごめんな、沙良ちゃん」と申し訳なさそうにしていたので、笑顔だけ返しておく。

 まあ無理もない。騒いでいるのは大柄で坊主頭にダボダボのジャージ姿といったチンピラ風情、昔のやんちゃ話を得意気に話すタイプの男だ。私も含め、多くの女の子から嫌われるとも知らずに。


気は進まないが店長としての責任もあるので、あくまで穏やかな態度で泥酔男へ声掛けをした。


 「お客様、申し訳ございません、この子今日はちょっと飲みすぎちゃって……」


 「は?俺は客だぞ?客の言う事が聞けないっていうのか!?」


 「飲み切れなかった分は会計から引いておきますので、落ち着いてもらえませんか?」

 大抵はこの辺りが落としどころ。だが、


 「なんだと?馬鹿にしてんのか?ったく、この店は教育がなってねえな!!責任者を呼びやがれ!」

 酔いもあって気が大きくなっているのだろう、クレーマーの王道発言が飛び出した。これ以上暴れられても困るのでお客様のご要望通り責任者に連絡を取る。自分が後悔する事になるとも知らずに。

 

 電話から戻ると、その場を任せたもう一人の従業員に対してお説教の真似事をしている。支配欲でも満たしているのだろうか。迷惑極まりない。他のお客さんにも申し訳ないので、こっそり離れた席に移動してもらった。

 そうこうしているうちに、本来は来店を知らせるドアのベルが鳴る。ようやくオーナーが戻ってきたようだ。


 「いやあ、遅くなりました。私に御用でしょうか」

 飄々とした態度で有瀬が現れると、クレーマーは獲物を見つけたと言わんばかりのにやけた表情になった。


 「お前のとこの店員、随分舐めた態度をとるじゃねえか!」


 「事情は伺ってます。すみませんね、瑠璃ちゃんはそんなにお酒強くないんですよ」


 「関係ねえな、俺の酒が飲めねえなんて客を舐めてるとしか考えられねえ」


 「そうですか。それで、何かご要望でしょうか?」


 「おう、俺はつまんねえ店で無駄な時間を過ごしちまった上に、気を悪くしたんだ。謝罪だよ謝罪、土下座して謝れよ。お客様大変申し訳ございませんでしたってな」

 

 金品を要求しないだけマシだが、頭の悪い要望をするものだ。当然、この話には乗らない。

 

「それは……出来ないですね」

 有瀬は呆れ顔で言い放った。


 「あ?なんだと?客をなんだと思ってるんだ!!!!」

 

 思い通りにいかなかったので怒りが頂点に達したようだ。男は立ち上がり、突如有瀬に殴りかかった。右手で真っ直ぐ、重そうな一撃。防御も回避もしなかったので、左頬に拳が入る。

この男は、少し調子に乗りすぎたようだ。ゆっくりと立ち上がり上着を直すと、有瀬の表情が変わった。


 「客ってのはな、金を払って店のルール内でサービスを受ける人間の事を言うんだよ。うちは後払い、アンタはまだ一銭も支払っていない上に店や他のお客さんに迷惑をかける、ただの煩いゴリラだ」

 冷静に鋭く言い放つ。有瀬はニヤリと片方の口角をあげ、それまでと態度を一変した。しかしゴリラとは、また直球の攻撃をするものだ。笑いを堪えるのが辛い。

 一方ゴリラは言葉にならない程に怒り狂い、さらに攻撃を仕掛けてくる。

 しかし今度は上体を左に反らし攻撃を交わす。同時に右手で相手の腕を掴み瞬時に後ろに回り込むと、その勢いで床に組み伏せた。一瞬の出来事にゴリラは理解が追い付かないのか、目をぱちくり開けたり閉じたりするだけだった。


 「これ以上やるならこっちもそれなりの対応を取るが、どうするんだ?傷害罪か恐喝罪にでもしておこうか?」


 数秒の静寂の後、圧倒的実力差に怯えてしまったのか男は小さい声で「す、すみませんでした……」と弱弱しく言うと、ポケットから1万円札を置いて逃げるように帰っていった。

 


 頼れるオーナーの元へ行き、赤くなった頬を撫でる。

「大丈夫?なにもわざと1発貰うことないのに」


「その方が後々楽なんだよ。みんな無事か?」


 その場にいた従業員も他のお客さんも驚いた顔をしていたが、先程までの嫌な緊張感から解放された為、安堵の表情を浮かべ始めた。


 「オーナー、ありがとね。来てくれて」


 「まあ、これくらいしか俺のやる事ないからな」


照れくさそうな有瀬に、ふと悪戯心が芽生えそうになる。だがまずは、頬を冷やす氷を用意してあげよう。

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