後編

 怖くて、なにもできなかった。怪物は熱湯をかけ、私に後ろをむかせ、そしてそのまま、いとも簡単に挿入した。


 いとも簡単に、というと語弊があるかもしれない。実際、私の処女喪失は簡単なものではなかった。何も知らない狭い膣口に割って入る肉が最奥に到達するまで時間がかかったし、破瓜の痛みで悶えた時間はどんな永遠よりも長く続いているような恐ろしさがあった。でも――。


 ただ快楽をむさぼる怪物からしてみれば、それはいとも簡単に、手軽に手に入る官能だったのだろう。


「なにか言えよ、凜! なにか言え!」


 怪物は、私が無言であることに怒っているようだった。しかし実際のところ私は無言というよりは口を必死に引き延ばして歯をかみ合わせ、前代未聞の痛みに耐えていた。顔が紅潮しているのが分かった。涙が、鼻水が流れるのが分かった。私は決してなどではなかった。けれど後ろをむいているせいで、怪物にはそれを理解されなかったのだ。


「泣けよ! 叫べよ! ママに言いつけてやるって泣いてみろ! オラ!」


 ピストンが続く。奥を責められるたび、まるで殴られたかのような痛みが身体全体を駆け抜けた。


「つまらねえ女だなぁ。犯しがいがねえ。ま、これから何度でもチャンスはある。よろしく――なっ!」


 ピストンが止まった。男のそれが私の中で震えるのが分かった。生暖かいが私の中に放たれた。その正体を知っているはずだった。けれど知らないふりをした。


「またね、凜ちゃん」


 怪物は別人のような優しい笑みを張り付けて浴槽から出ていった。腰が抜けて、そのまま湯船の中に頭まで入れて沈んだ。このまま溺死したい、と思った。けれど死ぬのは怖かった。お父さんのように、誰の手も届かない孤独たかみへ足を踏み入れるのは怖かった。



――


 それからというもの、元・不倫相手はあの人のいない時間帯を見つけては度々私を犯した。行為に至る前までは、決まって優しい笑みを浮かべている元・不倫相手は、裸になると怪物になった。もちろん、でっぷりと太ったその薄汚い肉体自体が怪物じみていたが、最も顕著なのはやはりその顔――瞳だった。その瞳は、闇しか映していない。目の前の雌の肉体――それしか見えないとでも言いたげに、怪物の瞳はほかの情報を遮断した。それは私も同じことで、犯されている間、私はほかのすべてのことを忘れることができた。お父さんのことを忘れることができたのは、そのときぐらいだったかもしれない。私が無になっている間、お父さんは生きてもいなかったし死んでもいなかった。ただぽっかりと空いた心の空洞の白い部分に、お父さんの魂があるような気がした。


 私の、処女も。


「ほんとつまんねえ女だな。最初にあいつを見たとき、年頃の娘がいるって聞いて期待してたんだが。身体は上物だが反応がないとつまんねえんだよ。なんか言えよ、オラ!」


 怪物が私の髪を引っ張った。私は唇を噛んで、ただ時間が過ぎ去るのを待った。



――


 あの人にそれが見つかったのは、犯され始めてから2か月ぐらい経った頃だったと思う。その日あの人は高校の同窓会があると言って、それなりにきらびやかな服を着て珍しく上機嫌で出かけていった。がある、と豪語する怪物は働いていなかったので、ずっと家にいた。私はその言葉が日本語に聞こえなかった。まるでどこかの遠い国でのみ使われている言語のように思えた。けれど、あの人がその目当てで再婚したがっているのであり、そこに愛がないということは明白だった。


 お父さんはあの人を愛していたのだろうか。


 凜――母さんはな、傷ついているんだ――。


 馬鹿馬鹿しい、と思った。全部馬鹿馬鹿しかった。だからこそ、心を殺してしまうのが一番簡単だった。あらゆる意味で、私はなにも感じないよう努めた。玄関のドアの鍵が、回されるまでは。


「ああ、本当に楽しかったわ」


 少し酩酊したあの人が靴を脱ぐ音が聞こえた。私たちは裸でリビングにいて、四つん這いにされて後ろから犯されていた。怪物に行為をやめる様子はなく、規則的なピストンが続いていた。私の身体中の血が紅く熱く沸騰するのを感じた。喉が膨れ上がった気がした。張り裂けそうな声で、叫んだ。


「助けて、お母さん! 私、犯されてるのっ!!」


 あの人はリビングまでやってきて、私を見下ろした。これで全部終わる、そういう希望を持っていた自分はまだまだ子どもで、愚かだった。あの人は裸の私を見た。裸の怪物を見た。でもそれだけだった。まるで時間が止まってしまったかのようにあの人は私を見つめたまま動かなかった。


「助けて――助けて」


 だんだんと私の声は宙に浮いて、分解されて窒素に食べられて消えた。あの人はずっと、ずっと――怪物が私の中に何度目かの射精をするまでの間、意志を奪われた人形みたいにそこに突っ立っていた。


 怪物と同じ、濁った瞳をしていた。



――


 翌日、朝がやってきた。元・不倫相手は私たちが出かける時間になってもいびきをかいて眠っていた。昨日の出来事はあの人の中でなかったことになっていることを理解した。今後もそうなのだろうと思った。制服を着て食パンをかじる私に、あの人が言った。


「私、彼と結婚するの」


 私は答えなかった。食パンの上のジャムがいやにねばついた。


「私、彼と結婚するの」


 あの人は昨日から人形になってしまったのではないか、と思った。あの人は力なく言葉を繰り返した。


「私、彼と結婚するの」


「……そう」


 あまりにも何度も繰り返されるので、私はついにそっけない返事をした。


「祝いなさい」


「うん」


「祝って」


 あの人の口元だけが緩やかに動いた。その瞳に意志は感じられなかった。私も同じ眼をしていたことだろう。


「祝って」


「おめでとう」


 あの人が望む言葉を投げかけた。それはまるでなにかの儀式の終了みたいだった。あの人は満足したようににっこりと笑い、早く帰ってくるのよ、と言った。


 今日も犯されるだろうな、と思った。無性に、お父さんに会いたい。


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濁った瞳 @moonbird1

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