濁った瞳
@moonbird1
前編
「ねえねえ、帰りにあそこの店寄ってかないー?」
「ああーごめん、私ママと用事あるから!」
「えー、ほんとママと仲いいね、ミホは」
「えへへー。でもそういうホノカも、この間授業参観に来てたときすごく応援されてたよね」
「あーそうそう、なんか運動会みたいにさ! 『頑張れ頑張れー!』って」
「あれ吹いたわ」
「ちょ、ちょっとやめてよぉ」
騒めく教室。耳に入れたくないことほど、よく聴こえる。早く帰ってくるように言いつけられているのに、恐怖で足が動かない。そんな私を心配して声をかけてくれる友人も、親も、どこにもいない。お父さんを亡くしてから、私はひとりだ。ひとりで、この世界の悪意に立ち向かわないといけない。
母さんを頼む。それがお父さんの遺言だった。あの人はお父さんが末期ガンの宣告を受けてすぐに私たちを見捨てた。病院には一切顔を見せなくなり、着替えを持ってこなくなり、看護師の連絡も私の説得もすべて拒絶した。あの人は不倫相手の家に入り浸るようになり、まともな食事もつくらなくなった。もう慣れたものだった。私が物心ついてからずっとそんな調子だった。お父さんはそんなあの人を一度も叱ることはなかった。優しさのつもりなのか、諦めているのかは分からなかった。私は別にお父さん子というわけでもなく、そんな父に失望を感じていた。
なのに、なのに――お父さんが死の淵にいるとき、私は周りも
「
「え……?」
消え入りそうな声で、お父さんは言った。
「お前のせいじゃないんだ。母さんのせいでもないんだ。全部、俺のせいなんだ――」
「お父さん、もう何も言わないで」
「母さんを、頼む」
お父さんはそう言うと、言い残したことはない、と言いたげな満足そうな顔であっちに旅立った。それが何より腹立たしかった。ただの言い逃げだ。
――
「凜、新しいお父さんよ」
漫画やドラマで聞いたセリフを、まさか自分が当事者として聞くことになるとは思わなかった。母さんの不倫相手はお父さんより一回りは年上で、脂ぎった顔はアンパンみたいに膨れ上がっていた。髭の処理も甘く、口の端に微妙な長さの毛がちらついていた。
「よろしくね、凜ちゃん」
不倫相手の掌は大きかった。お父さんのより一回り大きくて、それを不快に感じた。余計な肉がつきすぎて、怪物みたいだった。
「ん?」
握手に応じない私を見て、不倫相手は余計に笑みをその汚い顔に張り付けた。私は怖くなって1歩のけぞった。
「凜、もう高校生でしょう? 少しは礼儀正しくしなさい」
あの人が言う。呼吸が乱れた。うまく息が吸えない。
「だ、だって……」
もっと大きな声を出したつもりだった。だってこいつは。だけど私の声は消え入りそうで、お父さんの死に際の声に似ていた。
全部、俺のせいなんだ。
お父さんの声が頭の中で反響した。だったら、だったらこいつを今すぐ追い出してよ。
ねえ、お父さん。
――
そんな気はしていた。例えば通学中、満員電車に乗り込んだとき、痴漢しそうな男の眼はどこか血走っている。理性なんてものはすでに消え去っていて、悪い意味で覚悟の決まった狂った瞳をしている。社会的な常識も、人として大事な部分も捨て去って、ただ眼の前の女を
だから、いつかそうなるんじゃないかと予感していた。けれど私は無力なもので、たとえ予感していたとしても「それ」を防ぐことはできなかった。
一緒に暮らすようになってから、まだ1週間も経っていなかったと思う。私はお風呂に入っていた。あの人も元・不倫相手もすでに寝入ったと思っていた。なのに、洗面台でゴソゴソする音が聞こえた。私はシャワーを止めて、息をひそめていた。
「凜ちゃん」
元・不倫相手の声は風呂場にこびりついた黒いカビに似ていた。私は必死にお父さんの――元気な頃のお父さんの言葉を思い出そうとした。けれど、元・不倫相手の声がお父さんの声をかき消して脳みそにへばりついた。
「凜ちゃん、こんな遅くにお風呂に入ってるの?」
返事はしなかった。擦りガラス越しに、大きな影が蠢くのが分かった。あいつ、服を脱いでる。
「ダメだよお、早く寝ないと」
立て付けの悪いお風呂の扉が大きな音を立てて開いた。裸の元・不倫相手はいろんな意味でモンスターだった。なぜこんな淫獣にあの人が入れ込んでいるのか、不思議でならなかった。
「私は大丈夫です、だから」
震える唇で必死で言葉を紡いだ。でも私の声は小さすぎた。元・不倫相手が踏み出す1歩の音の方がはるかに大きかった。
「わあ、凜ちゃんきれいな身体だねえ。その割に肉付きはよくて――お父さんこんな娘をもてて幸せだよお」
元・不倫相手――いや、怪物はやはり濁った瞳をしていた。瞳孔は開ききり、眼の血管は血走って充血していた。なのに、なのに瞳はまるで機能停止したみたいに闇しか映していなかった。
「こ、来ないで」
「ねえ、お父さんにそのきれいな身体をもっと見せてよ」
怪物は浴槽に両手をついた。その勢いが強すぎて、湯船が激しく波立った。
「立って」
「い、いや……」
怪物はシャワーを手に取り、赤いほうにレバーを回して私に熱湯を浴びせた。
「あつっ――あついっ」
「立て、凜!」
怪物の大きな声が反響した。この声であの人が起きてくれればいい、と願った。けれどそうはならなかった。
おそるおそる立ち上がって、私は怪物にすべてを晒した。怪物は濁った瞳のまま、口角だけを上げて悦んだ。熱湯を浴びたのに、背筋が凍りつきそうなぐらい寒かった。
怪物が私の胸に触れた。乳首の先がいろんな邪悪を感じ取った。視線を少し下に下げれば、まるでなにかに怒り狂っているみたいな紅い肉の塊が見える。
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