第151話 五年前の経緯1
「五年前、人質として越後に来ていた雪村が甲斐に戻された理由。桜姫は誰かからそれを聞きましたか?」
「ええ、一応は。ただ話す人によって少しずつ内容が違ったから、よく判らないわ」
言葉を選ぶように話す桜姫に、泉水が僅かに苦笑する。
「でしょうね。当時は酷い噂も流れましたし、そういうのも聞いたでしょ? 兼継も『躍起になって火消しに走れば、陰虎様方の思う壺だ』とか何とか言って、放置を決め込んでましたし」
当時を思い出したのだろう。小さく溜め息をついた後で、泉水はぽんと膝を打った。
「俺は当時、誰よりも近くでその遣り取りを見ていました。一番真実に近い経緯だと思います」
そう前置きして、泉水は口を開いた。
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雪村がまだ越後に逗留していた五年前のある日。鍛錬場で汗を拭っていた泉水は、あまり会いたくない人物から声をかけられた。
「泉水。えらい気張ってはるなぁ」
振り返らなくても判る。上方の出自でもないのに、それに似せた胡散臭い喋り方をするこの男は、陰虎近習の首藤と言う。
白皙の細面に細い狐目、口角を吊り上げた顔はいつも笑っているようで、それでいて油断のならない眼光を秘めた男だ。
そもそも影勝派と陰虎派は、跡取り問題もあって親しいとは言い難い。
まして陰虎派は、無口で無愛想な影勝を小馬鹿にして嫌がらせめいた事をしてくる事も間々あり、馴れ馴れしく声をかけられる謂れなどない、とまで泉水は思っている。
首藤を一瞥し、泉水は明るく笑い飛ばした。
「まあな。こんなご時世だ。鍛錬なんていくらしたってし足りないだろ? いざって時は案外近かったりするもんさ」
「おお、怖い怖い。影勝殿の近習は野蛮でこわいなぁ。でもな、戦は腕っぷしだけやない。ココや」
あまり舐めた態度を取っていると痛い目をみるぞ 言外にそう匂わせた泉水に、こめかみのあたりをとん、と叩いた首藤が、細い目をますます細めて嘲笑う。
「はは、そりゃそうだろ。何のために兵法を習ってんだよ」
小狡いのがそんなに偉いかね。手拭いを手に持ったまま、泉水は踵を返した。挑発しているつもりだろうが同じ土俵に立つこともない。
場を去りかけた泉水の背中に「そういえば」と何気なさを装った声が掛けられた。
「あの子、今日は一緒やないの? ほら、髪をひとつに結んだ子」
またか。
泉水は鍛錬用の槍を所定の場所に片づけ、ついでに井戸の水で手拭いを濯ぐ。最近は顔を合わせればその話だ。
並んで歩調を合わせてくる首藤を、泉水はうんざりとした表情を隠さずに見返した。
「俺は別に雪村の世話役じゃないんでね。そもそもお前さんには関係ないだろ?」
「つれないなァ。いやあ。ちょお気になる噂を聞いたもんやから」
「噂?」
やたらと絡んでくる理由はそれか? さすがに興味を引かれて聞き返すと、僅かに眉を顰めた狐顔がこそりと泉水に耳打ちした。
「武隈からの人質の子。実は女の子やって噂があってな。あんたに聞いたら判るんちゃうかなー思って」
「はあ!?」
どこから出たんだ、そんな噂。
泉水は、兼継が面倒を見ている子供の姿を思い出した。
改めて思い返せば雪村は、女童といわれても通じそうな可愛らしい顔立ちをしているが「女子のようだ」と考えた事は無い。それは影勝の小姓たち皆がそうだろう。
何故なら鍛錬の後、共に諸肌脱いで行水をしたり、水泳の練習と称して夏の川辺で泳いだ事などいくらでもある。
当たり前だが雪村の胸は真っ平らだ。女子である訳がない。
「そんな訳が無いだろう。馬鹿々々しい」
興味を引かれて時間を割いた事自体が、もう馬鹿々々しい。
さっさと歩き出した泉水の背に「そんなん隠してた、となったら、そっちも大変やろしなァ」と声が掛かったが相手にせず、泉水は鍛錬場を後にした。
後になって思うに、世話役を任されていた兼継には報せておくべきだった。
どんなに下らない噂であったとしても。
噂の出所は、陰虎の邸内で花姫と侍女衆が綴っていた、絵空事の創作物語だった。そうと知らない陰虎が、妻から聞いた真偽不明な話を真に受けて小姓衆に話したのが実態だ。
そのような経緯を事前に知っていれば、まだ手の打ちようもあっただろうが、泉水は『くだらない噂』と無視を決め込んだ。
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