なます
只の葦
なます
ズズズズズズ…………
ヤマダさんがお茶を啜る音が聞こえる。
この老人ホームで働き始めてそろそろ二年になる。まだまだ未熟ではあるが、毎日少しづつ出来ることが増えていることと、何よりも入居者とのたわいも無い会話が楽しくて、なんだかんだと続けられている。
介護職員は女性が多い。それなのに、介護というのはかなりの肉体労働だ。入居者を風呂に入れたり、車椅子に乗せたり、ベッドに寝かせたりする時の自身の体への負担は軽くはない。男である私でさえ、いつ体を痛めてもおかしくない。毎日祈るような思いで腰を労わっている。
今日も帰ったら熱い風呂に入って、少しの酒を睡眠薬にして眠る。「体は資本」と昔誰かが言っていたが、やっとその意味が理解出来た気がした。
三時の鐘が鳴る。おやつの時間だ。入居者が一堂に会する広間に、お菓子と飲料を運ぶ仕事がある。
広間には、クリーム色の長テーブルを三つ繋げたものが五列。各列に六人づつが座り、計三十人の入居者が揃っていた。私は台車を押しながら一人一人の席を回り、声をかけながら配っていく。今日のメニューはどら焼きと紅茶だ。どら焼きはムラマサさんの大好物だから、手を叩いて喜んでいる。そのどら焼きに合うように、紅茶はアールグレイのストレートにしてあるが、タカクラさんは絶対にミルクを入れたものしか飲まないと、頑として譲らない。その事を幾度となく経験してきた。だから、タカクラさんの紅茶には初めからミルクを入れておく。入居者の我儘に端から答えていては、歯止めが効かなくなる。だが、三時のおやつくらいは贅沢したってバチは当たらない。自分一人では生活もままならない歳まで生きてきて、紅茶にミルクを入れる自由すら奪われるような人生にはしたくなかった。
ズズズズズズ………。
紅茶を啜る音が聞こえる。ヤマダさんだ。
ヤマダさんは入居5年目の90歳で、私が務める前からここに居る。ヤマダさんに限らず殆どの入居者が私より先にここにいるのだが。
そんな中でもヤマダさんは一番最初に覚えた人だった。腰を丸めてお茶を啜る姿が、如何にもお爺さんって感じで、子供の頃に亡くなった祖父の姿と重なった。
ただ、ヤマダさんの最も目につく特徴は、その啜ると言う行為だ。ヤマダさんはお茶に限らず、飲み物全般を音を立てて啜る。紅茶もお湯も、オレンジジュースに至るまで、必ず音を立てて啜る。「
夕飯の時もヤマダさんの癖を耳にする。味噌汁もお茶も啜っている。今日のメニューは和食。白米、味噌汁、焼き鯖に漬物だ。ザ・和食。特に焼き鯖は油が乗っていて旨そうだった。
ズズズズズズ……
やっぱりまた啜っている。今日の味噌汁の具材にはなめこが入っているから、喉にするっと飲み込まれては困る。一応気にかけておかねばと思い、ヤマダさんに視線を向ける。
ヤマダさんは確かに啜っていた。
焼き鯖を。
液体では無いはずの鯖をヤマダさんは音を立てて啜っている。箸で解された魚の身が、ほろほろと口に吸い込まれていく。私は笑いを堪えるので精一杯だった。
その日以降、ヤマダさんを注視するようになった。鯖を啜るくらいだ。一体どのくらいのものまでなら、同じように啜って口にするのだろうかと思うと、仕事にも手が付かない。
今日のメニューはカレーだ。
ズズズズズズ………
おやつのカップケーキ。
ズズズズズズ……
今日はスパゲティ。これはまあ、
ズズズズズズズズ……
やっぱり。
おやつの麩菓子。
ズズズズズズ……
ズズズズズズズズズズズズ…………
頭の中で、あの啜る音が反響している。常に聞こえている気さえした。
夜勤中の今でさえそうだ。少し仮眠を取ろうとしていたのに、耳の鼓膜の辺りで、ズズズズ…っと幻聴が聞こえてきて眠れなかった。仕方なく施設内の見回りも兼ねて、軽く気分転換に歩き回る。夜の施設内は不気味な程静かで、よく同僚達が幽霊が出るとか騒いでいる。見回りの時にうめき声が聞こえるそうだ。場所が場所だけに、それは現実的な問題が起きていると思うのは私だけだろうか。
ズズズズズズ……
まだ耳の中で聞こえる。
ズズズズズズズズ………
むしろその音が大きくなっている。
ズズズズズズズズズズズズズズズズ……
疲れているんだろうか。体はキツいし、給料は安いし、本当に好きでなければできない仕事だな。
ズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズ…………
確かに音が聞こえた。耳の中の幻聴では無く、確かに音が発せられている事に気が付いた。通りかかった部屋の前で足を止める。
入居者を示すネームプレートには「タカクラさん」と「ヤマダさん」の文字。
もうとっくに就寝しているはずだ。ドアの小窓からは、部屋の電気が消されていることが分かる。まさか隠れて食べ物を持ち込んだなんて事があるだろうか。何にしても確かめなければならない。
ドアノブに手をかけると、自分の手が手汗で濡れていることに気が付く。滑るせいで、普段より力が入る。
静かにドアを開けた。
頼りない月明かりに照らされた部屋の中央に、一つの影があった。
目を凝らすと、それは二つの影が合わさったものだと分かる。
横たわる人と、それに被さる人。
私の体は、無駄に呼吸をしようとするばかりで、声のひとつも発しない。
被さっている人の方がゆっくりと、老人のようにゆっくりと体を起こす。顔らしきものがこちらを向いたのだと分かったのは、月明かりを反射した目が、私の目を捉えたからだ。
私は腰を抜かしてその場に倒れ込む。
ズズズズズズズズズズズズズズ………
またあの音が、耳の中で聞こえた。
なます 只の葦 @tadanoasi
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