腐敗
「エミリー様! 出てきてください! エミリー様!」
エドワード領の公爵邸門前にて、一人の男が叫んでいた。
彼は領内でも力を持った貴族であった。
前領主グレンのときから領主に仕えていた彼は、領民のことを第一に考え行動してきた。
領主グレンもそういった考えの持ち主であり、彼はグレンを尊敬していた。
だが、そんなグレンが病に倒れ娘のエミリーが領主を継いでからというもの、すべてがおかしくなり始めた。
最初はグレンの死を悼んでいた彼だったが、娘のエミリーが聡明な女性であることを知っていたため領地の未来に問題はないと思っていた。
しかし娘のエミリーは領主になってから次々に悪政を敷き始めたのだ。
暴力的とも言えるほどの増税、一部特権階級にだけ有利で民にとっては不利でしかない法整備、国の秩序を守る兵士達の待遇改悪、など挙げればキリがなかった。
それらの悪政によって領地は必然的に荒れていった。そして、それに意見した貴族や側近達はみな処罰を受けてしまった。
彼も、そんな貴族の一人である。彼はエミリーの敷く悪政に意見したがために政治に参加する権利を無理やり剥奪され、財産を没収されてしまったのだ。
だがそれで黙る彼ではなかった。彼は人一倍正義感が強かった。
ゆえにエミリーの悪政をなんとか諌めようと思いこうして門前で叫んでいるのだ。
「エミリー様! エミリー様!」
「ええい黙れ! お前のような奴がエミリー様に会えると思うな!」
叫ぶ彼を二人の門番が突き飛ばす。
門番や邸宅を守る兵士だけは特別な恩賞をもらっていた。ゆえに、彼らはエミリーの手足として動く私兵となっていた。
「止めろ! 君達はおかしいとは思わないのか! このままではエドワード領は崩壊してしまうぞ!」
「そんなこと俺らが知るか! 俺達は金をもらって雇われているのだ。それ以上でもそれ以下でもない! 分かったらとっとと帰れ!」
「くっ……!」
それでも彼は諦めない。彼はまた門へと掴みかかり、叫んだ。
「エミリー様! せめて話を! エミリー様!」
「ええい! しつこいぞ!」
「――何事ですか」
と、そんなときだった。
館からエミリーが出てきたのだ。彼女はドレスで着飾り、これから出かけるようであった。
「エミリー様! どうか考えをお改めください! このままではこの領地は大変なことになってしまいます! すぐには無理なら、せめて今この領地を騒がしている殺人鬼の取締に力を入れるだけでもいいのです! どうか! どうか!」
彼は必死に叫ぶ。殺人鬼というのは、今この領地で起きている連続殺人の犯人と思われている何者かの事だ。
エミリーが領地を収めるようになってからすぐ、領地内で次々と殺人が起きていた。
犯人は一切不明。証拠もまったくなし。その存在に領民は震え上がっていた。
だから、せめてその捜査を本格的に開始するだけでもいいというのが彼の望みだった。
「ふむ……」
エミリーは彼に近づく。彼はようやく話を聞いてもらえるのかと思い、表情を緩めた。
しかし――
「その汚い口を閉じなさい、この下郎」
「っ!?」
エミリーは彼の顔を思い切りはたいたのだ。
彼は地面に倒れ、そして信じられないようなものを見る目でエミリーを見た。
「エミリー様……!?」
「衛兵、とっととこの薄汚い男を捨ててきなさい。不愉快です」
「はっ」
門番達はエミリーの言葉に従い彼の両腕を掴んで引きずり道の反対側に放り投げた。
「ぐっ……!」
彼は痛みに体を震わせる。
一方でエミリーはそんな彼に目もくれず馬車に乗り、出発していく。
痛む体にムチを打ち立ち上がる彼。だが、次の瞬間彼は驚くべきものを見た。
馬車の進行方向に一人の老婆がいたのだ。
当然馬車は止まるものだと思った。
だが、馬車は止まることなく老婆を轢きそうになったのだ。
「あっ、危ない……!」
彼が叫ぶ。すると、老婆は転ぶように道から逃れ、なんとか一命を取り留める。そんな光景を見て彼は一瞬唖然とするが、すぐさま老婆のもとに駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「え、ええ……なんとか」
彼はその老婆を知っていた。ヒラリーという名で、以前はエミリーとも親しくしていた老婆だ。
「ああ……すいません貴族様、こんな老婆に気を配っていただいて」
「いいえ、それが貴族の義務ですから。さ、立てますか」
「それが、どうにも足を挫いたようで……」
「そうですか。ならば、私の背にお乗りなさい。家まで運びましょう」
「ああ、何から何まで申し訳ない……それにしても、エミリー様は一体どうなされてしまったのか……」
老婆がとても悲しそうに言う。彼女を背負いながら、彼は静かに頷いた。
「そうですね……以前はあんなお方ではなかったというのに……何があったというのか」
「昔はとても優しく聡明な方であったのに……私には何がなんだか……」
「ええ、本当に……」
彼は老婆をおぶるとそのままその老婆の指し示す道を歩き始める。
一体何がどうなってしまったのか、彼らにはまったく分からなかった。
時刻は午後をそこそこ過ぎ、太陽が傾きかけ始めていた。
「すっかり日がくれてしまいましたね……すみませんこんな時間まで貴族様にご苦労をかけて」
老婆が言う。日はいつの間にか夕日になっており、街を朱色に染めていた。
「いえ、いいんですよ。それより、ここでいいんですか?」
「ええ、そこを曲がれば私の家ですから……」
老婆が道の曲がり角を指し示す。彼は老婆に言われたまま道の曲がり角を曲がり、狭い裏路地に入った。
そのときだった。
「……え?」
彼と老婆は、言葉を失った。
そこには、死体が転がっていた。ただの死体ではない。子供の死体だ。
まだ十にも届かないような少女が、体中から血を流し倒れていたのだ。悲痛な表情で顔を固めて。
そして子供の死体の側に、一人の女が立っていた。
長い黒髪を揺らし、白磁のような肌をドレスから見せる、美しい女性が。
女の手には、血濡れたナイフが握られていた。
「あら……今日はこの子一人で満足していたのだけれど、また新しい獲物が来たようね」
女は二人を見ると、ごくごく自然に笑った。
彼は直感する。
目の前にいるのが、今世間を騒がせている、殺人鬼だと。
「おばあさん……逃げて!」
彼は老婆を素早く地面に下ろすと、そう叫ぶ。
「はっ、はいいい!」
老婆は痛む足を引きずりながら必死に逃げる。
「あら、あなたは逃げないの?」
女が聞く。彼は、今すぐにでも逃げ出したかった。だが、彼は震える体を必死で抑えて言う。
「だまれ、殺人鬼……! お前をここで逃がすわけにはいかない……!」
「逃がす……? 面白いことを言うのね」
彼女がそう言った、次の瞬間だった。
「私は獲物を前にしてどこかに行ったりしないのよ」
一瞬で彼の目の前に寄ってきた女が、彼の心臓を一刺しした。
「あ……?」
「今日はドレスを汚したくない気分なの。だから、そのナイフはあげる」
女はニコっと笑い、心臓にナイフを突き立てたまま彼を突き飛ばした。彼は、そのまま仰向けに倒れる。
倒れた彼の視界が、だんだんと暗くなっていく。彼の視界に最後に映ったのは、老婆を笑いながら追い立てる女の後ろ姿だった。
◇◆◇◆◇
「また人を殺しに行っていたのか、宇喜多氏」
魔城にて、奉政が外から帰ってきた富皇に言った。
「ええ、そうよ」
奉政の言葉に、富皇はにっこりとした表情で答える。
「また意味もない殺人をして……バレたら我々の計画に支障が出る。もう少し慎んでもらいたいものだな」
「そうは言っても、殺したいからしかたがないじゃない」
いっさい悪びれた様子なく言う富皇。
そんな彼女に、奉政は溜息をつく。
「はぁ……まあ、結果的に人々の恐れの感情が高まっているからいいものの……やはりあなたの殺人は、理解に苦しむ。あなたの、理由も目的もない殺人は」
「そうね。理解されると思ってはないわ。でもこれが私なの。仕方がないじゃない?」
「……もういい。それより、街の様子はどうだった?」
奉政はこれ以上富皇に付き合っても意味がないと知り、話題を変える。
すると、富皇は顎に手を起きながら答える。
「ええ、いい感じよ。ドッペルゲンガーはあなたの言う通りに悪政を敷いているわ。おかげでエドワード領はいい感じに腐り始めている。人々の負の感情が渦巻いているのを肌身で感じるほどにね。これなら……あと十年、ってところかしらね」
「そうだな。今のペースで負の感情が募れば、十年もすれば軍備が整う。それまでは、ゆっくりとやっていこうじゃないか」
そう言って、奉政もまた笑う。
魔王達の毒は、静かにエドワード領を侵していっていた……。
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