侵略される平穏
「それではお父様、行ってまいりますわ」
エドワード公爵家令嬢、エミリー・エドワードは父であり領主でもあるグレン・エドワードに向かって笑顔で言った。
「ああ、行ってらっしゃいエミリー。遅くなるまでには帰ってくるんだよ」
「もうお父様、わたくしもう十五歳ですのよ? そんなことは言われずとも分かっております」
「はは、そうだったな」
少し顔をふくらませるエミリーに苦笑するグレン。
そんな父に軽く溜息をつくエミリーだったが、すぐさま笑顔に戻り、父に頭を下げて屋敷を出ていった。
エドワード領は二百年前の魔族との戦争の折に与えられた領地であり、エドワード家は代々魔族領ノーマンズランドを監視する役目を与えられていた。
と言っても、ここ数十年はその監視も魔族の力の衰えから形骸化しており、魔族領と接しているという点を除けば他の領地と大差ない、いや、他の領地よりも豊かであるとも言えるほど平穏な領地であった。
そのエドワード領を現在治めているのがグレン・エドワードであり、その娘が彼女、エミリー・エドワードである。エミリーの母親は早くに亡くなっていた。
エミリーは心優しく聡明な少女であった。
常日頃から領民の幸せについて考えており、領民との交流を絶やさなかった。
領民達はそんなエミリーに大きな好意を持っていた。
彼女が次の領主になったときには、エドワード領はさらなる発展を遂げるものだと多くの領民が思っていた。
そんな彼女はその日、いつものように領内の病院を訪れ、怪我人の治療や体の不自由な人々のための介護を手伝う予定だった。
「エミリー様、おはようございます!」
「おはようですー! エミリー様ー!」
「はいみなさん、おはようございます」
道を行くエミリーに大人も子供も、みんなから声がかけられる。
エミリーは、そんな領民一人ひとりに手を振る。
「エミリー様、いつもご苦労さまです……」
「あらヒラリーおばあさん、腰の方はもう大丈夫なんですか?」
「ええ、おかげさまで……エミリー様からもらった薬のおかげですっかりよくなりました」
「それはよかったですわ! ヒラリーおばあさんにはこれからももっと長生きしてもらわないといけませんからね」
「ほほほ、そう言ってもらえるとうれしいですのう……」
エミリーは老婆の手をとって明るく言う。
老婆もそんなエミリーの言葉に元気をもらっていた。
そんなエミリーのまわりにどんどんと人が集まってくる。みな、エミリーを慕っている領民達だった。
「おっ今日も病院ですかエミリー様? お昼休憩のときにでもうちの店によってくださいよ! いいパン取っておきますから!」
「ねぇエミリー様! 今度一緒に遊ぼうよ!」
「エミリー様、今日も一段とお美しい……」
「ああみなさん、いっぺんに喋られるとちょっと困ってしまいますわ。一人ずつ話を聞きますから落ち着いてくださいまし」
エミリーは少し困った笑顔で領民達に答える。しかし、その時間を彼女はとても楽しんでいた。
かけがえのない領民と過ごす時間が、彼女にとってなによりもかけがえのないものだった。
それからエミリーは領民達の相手をしつつも、ちゃんと時間通りに病院を訪れ、怪我人などの世話を手伝った。
病院の人々もみなエミリーに感謝し、彼女との交流を楽しんだ。
しばらく病院の手伝いをしていたエミリーがそこを出たのは、日もくれつつある時間であった。
「ふう……もうこんな時間ですか、一日というのはあっという間ですわね」
エミリーは暮れなずむ町並みを見ながら言う。
夕方に向かって仕事を終えたり最後のひと頑張りをしたりしている領民を見て、エミリーは心が満たされていった。
こんな平穏がずっと続けばいい。
エミリーは心からそう思った。
「あの……すみません」
と、そんなときだった。
エミリーは突如横から声をかけられた。
「はい?」
エミリーが声をした方向を向くと、そこには黒いフードを被った一人の女性が立っていた。
どこか弱々しく見えるその姿は、何か困っているというのがすぐに分かった。
「すみません……エミリー様ですよね? 実は、お話したいことがありまして……」
「わたくしに、ですか?」
「ええ……どうかついてきてくれないでしょうか?」
エミリーは思う。目の前の人物を、この街では見たことがなかった。しかし、彼女も領民すべての顔を知っているわけではない。たまたま自分が知らない顔の人なのだろう。
それよりも、彼女は何か困っているようだった。それも、自分が領主の娘であるということを知って話しかけてきている。きっとこれは本当に大切な要件に違いない。ならば、助けてあげなければ。
「ええ、分かりましたわ。一体、お話とはなんでしょう?」
ゆえにエミリーは二つ返事で答えた。
「それは私の家で話します……こちらについてきてください」
エミリーはそう言われ、歩き始めた女性の後を追う。
女性はしばらく歩き、町外れにある小さな小屋へとエミリーを案内した。
「こちらでございます」
女性が小屋に入る。
はて、こんなところに小屋なんてあっただろうか……? エミリーは少し訝しみながらも、その小屋に入った。
その瞬間であった。
「――っ!?」
エミリーの後頭部を、突如強い衝撃が襲った。
鈍い痛みで襲いかかったそれにエミリーは耐えられず、床に倒れてしまう。
床に赤く広がる血。どうやら後頭部から血が垂れているようだった。
「力の調整はちゃんとできるわね……人間らしい力で殺しができるのは良かったわ。それにしても、まったく、こんなにあっさりと連れ込まれてくれるなんて。本当に平和ボケしているのね。ま、やりやすかったからいいけど」
地面に倒れたエミリーの耳に、そんな声が聞こえる。
「あ……あ……」
エミリーはあまりの痛みで声が出せずにいた。視界もおぼろげで、はっきりと物が見えない。
ただ、先程自分をここに連れてきた女性が屈んで自分の顔を見ていることだけは分かった。
「悪いけど、あなたにはここで死んでもらうわ。大丈夫、あなたの代わりを『あなた』が務めるから。あなたの大好きな領民達は、あなたが死んだことなんで気づかないわよ」
女が笑いながら言っていることだけは分かった。
ゆっくりと視界が戻っていくのを感じるエミリー。そこで視界がはっきりとなったときに彼女は必死に顔を上げて自分を殴った女性を見ようとした。
「……え……!?」
そして、驚くべきものを見た。
いたのだ。自分自身が。
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた自分自身が、黒髪の女と一緒に自分を見下ろしているのを見たのだ。
「さようなら、エミリー・エドワード。優しい令嬢さん」
それを見た次の瞬間、彼女の頭にハンマーが振り下ろされ、彼女の意識と視界は完全に闇へと落ちた。
◇◆◇◆◇
「只今戻りましたわ、お父様」
「おおエミリー、遅かったな。また領民達と話していたのかい?」
グレンは外から帰ってきた自分の娘を迎えていた。外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。
「ええ、そんなところですわ。それよりお父様、今日わたくしとても疲れましたの。悪いですけれど、すぐさま部屋に戻らせていただきますわね」
「ん? あ、ああ……」
グレンは珍しいこともあったものだと思った。
普段のエミリーならどんなに疲れていても家族との時間は大切にするのに、今日はとてもそっけなく、トゲトゲとした印象を受けたからだ。
「まあ、普段頑張っているからなエミリーは。今日ぐらいはゆっくりしなさい」
「はい、お父様」
エミリーは笑顔でグレンに言う。
なんだかその笑顔も不自然なものに感じてしまうグレンだった。
一体、どうしたというのだろうか? グレンは不思議に思った。
「……ゴホッ! ゴホッ!」
そんなときだった。グレンは急に咳き込んでしまった。
「あら、風邪ですのお父様? ダメですわよ、しっかりと体調を管理しないと」
「う、うむ……さっきまでそんなことはなかったはずなのだがな。一体どうしたのだろう……ゴホッ! ゴホッ!」
グレンはそのまま咳き込みながら、部屋に戻っていくエミリーの背中を見つめた。
やはりおかしい。普段のエミリーなら、自分が体調を崩したときはもっと心配してくれたはずである。
それなのに、今日はまるで他人事のように冷たい。
「……ゴホッ! 何かあったのか? エミリー」
違和感を抱えつつも、グレンはその違和感の正体がわからないままであった。
そして、その日からであった。グレンの体調が急激に悪化しはじめたのは。
最初は軽い風邪か何かかと思った。
だが日に日に体調は悪化していき、三週間を過ぎた頃にはベッドから起き上がれなくなっていた。
領主としての仕事は側近に任せることとなり、グレンは病気療養に専念せざるをえなくなった。
しかし、いくらベッドで横になっても、医師から様々な薬をもらっても病状は良くならず、むしろ悪化していく日々だった。
グレンの急激な体調悪化に領民や使用人達は困惑し、心配した。
そんな中でもエミリーは領主の娘として仕事をし始め、だんだんと領主としての役割を覚えていった。
娘が才女であることに、グレンは少しばかり安堵した。
正体不明の病気は日に日にグレンの命を奪っていく。やがて、グレンは一つの決断をした。
「エミリー……」
その日、グレンはエミリーを呼び寄せていた。
もちろん、彼はベッドから動けないため、エミリーはベッドの側に座る形になっていた。
「はい、お父様」
「この領地の領主を、お前に任せる……そのための遺言状も、既に書いてある……どうか、このエドワード領の事を頼む……」
「ええお父様。この領地はわたくしがしっかりと引き継いでいきますわ」
それはあまりにもそっけない答え方だった。そこにこれから親が死ぬことに対する悲しみは一切感じられなかった。
グレンは、最初に感じた違和感が再び心の内に浮かぶのを感じた。
「エミリー……?」
「可哀想なお父様。こんなにも早く逝かれてしまうだなんて。しかし、ご安心ください。エドワード領はちゃんと引き継いでいきますわ……そう――」
そうしてエミリーは笑った。
いつものような、朗らかな笑顔を見せて、言ったのだ。
「魔族の踏み台となるための、この領地をね」
「……は?」
グレンは娘が何を言っているのか分からなかった。
魔族? 踏み台? エミリーは、何を言っているのだ……?
「ああ、お父様。愚かなお父様。自分が魔物に取り憑かれ命を奪われているとも、自分の娘が魔族と入れ替わっているとも分からない、哀れなお父様」
「魔族と……入れ替わっている……だと!? では……貴様、は……ゴホッ! ゴホッ!」
グレンは血を吐く。視界がぼやける。エミリーの姿をした何者かに手を伸ばそうとするも、それすらできずにいた。
「わたくしの名前はドッペルゲンガー。他人になりすますことができる魔族ですの。そしてお父様についているのはシェイド。他人に取り付いて命を奪う亡霊の魔族。すべては魔王様の命令でしたの。この領地を手に入れるためのね……まさか遺書まで書いてくれるなんて、わたくし嬉しいです!」
「そんな……では、エミリーは……!?」
「とっくの昔に、死にましたわ」
「あ……ああ……!」
グレンは必死に目の前の娘の姿をした魔族――ドッペルゲンガーに掴みかかろうとする。
だが、そんな力は当然なく、彼はベッドから転げ落ちてしまう。
「ぐっ……!? ガハッ!? ゴハッ!?」
「あらあらそんな血を吐いて、汚らしい……これからわたくしのものとなる屋敷を汚して……。まあ、安心してくださいまし。これからこの領地はわたくしがゆっくりと腐らせてあげますわ。そして、この国、また別の国を知るための前線基地となるのです。それはとても名誉なことですのよ」
相変わらず笑顔で語るドッペルゲンガー。
グレンは娘の姿をしたその怪物の顔を見れば見るほど、憎くて仕方がなくなってくる。
「貴様……! 娘の姿で……ゴホッ! その口を開くな……! ガッ!」
「そろそろ限界みたいですわね……さようなら、お父様。この国の民と共に、せいぜい魔族のための肥やしとなってくださいまし……」
そう言いドッペルゲンガーは遺書片手に部屋を出ていった。
部屋に残されたグレンは、怨嗟の念を声にすることすらできず、血を吐きながら息絶えていった。
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