第2話 きみは、鬼の正体ってなんだと思う?


 その日の放課後。


 わたしは図書室で宿題を片付けていた。


 智聡中学の図書室はとても広く、とても天井が高く、とても奥行きがあって、とても利用者が少ない。だからいつ来てもひっそりしていて、どこかさびしい。


 だけどわたしは、そんな図書室の雰囲気が好き。まるで、ここは人間ではなく本が主役の空間なんだって、言われているようで。


 わたしはあたりをぐるっと見渡す。木製の本棚にしまわれた、見た目も中身もさまざまな本、本、本。それらはただ、だれかに読まれるのをじっと静かにまっている──そんな気がしてならない。


 わたしはきっと、本を生き物だと思っている。図書室という本の住み処に、わたしはお邪魔をしている立場。こんなに静かな空間では、本たちの息づかいが聴こえてきそうで。


 やっぱり、ここが好き。あらためてそう思う。教室なんかより、よっぽど。


「あれ、夜野目さん」


 机から目線を上げると、小山内さんの顔があった。


「夜野目さん、ここで勉強してたんだ?」

「……そう、なんです、家でやるより、はかどって」


 緊張して、声が裏返る。

 

 おちつけ、おちつけ、緊張するな。クラスメイトとの日常会話じゃないか。


「ふうん。わたしは図書委員の子に用があってさ」

「は、はい」

「でもさ夜野目さん、学校で勉強したあと、放課後も残って勉強するなんて、かなり怖いよね」

「え?」

「だから、夜野目さん、怖いよねって」


 聞きまちがい──じゃなかった。わたし、いま、面と向かって怖いと言われた……。


 たしかに、入学して早々図書室で勉強なんて、いかにもガリ勉じみてる。それは認める。


 だけど小山内さんは、わたしを昼食に誘ってくれた人で。そんなやさしい人が、こんなにもあっさりと、突然攻撃してくるなんて。


 わたしにとって、その豹変のほうが、怖い。


 怖いし悲しいけど、同時にやっぱりって気持ちにもなる。


 やっぱり、カンちがいだったんだ。


 期待しないでよかった。わたしに、わたしみたいな根暗に、友だちができるわけ、なかったんだ。


「夜野目さん?」

「なんでも、ないです」

「なんだか夜野目さんて、いつもうつむいてるね」


 あなたのせい、とは言えなかった。たしかに、わたしはいつもうつむいている。


「……じゃ、わたし帰るね」


 気まずそうな雰囲気を残して、小山内さんが去っていく。小山内さんがきっかけだったのに、気まずくさせた罪悪感に襲われた。


 もしかしたら、ほんとうにわたしが悪いのかもしれない。うん、なんだか、そんな気がしてきた。


 すべてを自分のせいにするのは簡単で、なにも考えずに済むから楽で。わたしはこうして、生きてきて。


「…………ふぅっ」


 そっと息をはいてから、わたしは立ち上がった。気分転換に本でも読もう、そう思った。


 とりあえず、いちばん近くの本棚をのぞいてみる。


『鬼全体解剖図』『幻獣事典』『西洋の怪物・東洋の妖怪』『ドラゴンの飼いかた□実践編』『妖精学事始』


 背表紙を読んで、首をかしげる。


 解剖? 鬼を? 飼う? ドラゴン?


 背表紙はどれも古ぼけてはいたけれど、逆に言えば風格はある。


 大まじめで、りっぱな風格。


 まるで、堂々と、鬼やドラゴンといった存在を信じているかのよう。


 どの背表紙もしっかりホコリがついていて、読まれている様子はない。それがなんだか切なくて、ならば、わたしが読んであげようか、なんて気分にもなって。


 わたしは『鬼全体解剖図』を手にとり──うん?


 視界のスミに、なにかが入りこんだ。黒いなにか。たぶん影──人影。


 ふり向いたとたん、その人影は動いて、本棚の向こうに消えてしまう。


 もしかして、わたしが邪魔だったんだろうか。はやく本棚の前から退かないかな、と、わたしを見ていた。それでわたしと目が合いそうになって、あわてて逃げた……とか?


 ありそうなことだと思い、わたしは本をとらずに立ち去ることにした。


 続いて、のぞいてみたのは児童書の棚。児童書は基本、やさしい世界なので好き。児童書はわたしのこと、好きじゃないだろうけど。


 『エルマーの冒険』を『エノレマ一の冒険』だとカンちがいしてたなぁとか、『はてしない物語』を『はしたない物語』だと思っていたなぁとか、昔の恥が甦る。いまだって、『鬼滅の刃』は『自滅の刃』だとずっと思っていた。


〝甦〟は〝更生〟と書くけれど、わたしは更生しないんだ。


「…………えっ」


 思わず、声がもれてしまった。なぜなら、視界のスミに、またもや人影が見えたから。


 わたしがふり向くと同時に、人影も動いて、本棚の奥に消えてしまう。


 またもや邪魔をしてしまったのだろうか。人が少ない図書室で、なかなか珍しいことではあるけど。


 ……まさか。


 わたしは、ある可能性に気づく。


 まさか、人影は、わたしに用がある? わたしの跡をつけている?


 目が合いそうになると逃げるのは、気まずいからではなく、跡をつけているのがバレないように?


 そんなバカな、と思いつつ、不安がぬぐえない自分がいる。


 わたしにとって得体の知れない人影は、人の影とは限らないから。

 

 ──アグリさんて、知ってるやよ?

 

 思い出す、水橋さんの言葉。そうだ、あの人影は、女の子ではなかったか。


 図書室から、出なきゃ。わたしは早歩きで出口を目指す。


 グスっ、グスっ、グスっ


 すると、かすかに聞こえてくる音。


 グスっ、グスっ、グスっ


 いや、音ではなく声、それも泣き声。


 はやく逃げたほうがいい。それがわかっているのに、わたしは立ち止まってしまう。無視したほうがいい、それがわかっているのに、わたしはふり向いてしまう。


 本棚に寄りかかるようにして、少女が一人うずくまっていた。


「……あぁ」


 あぁ、やっぱり、ふり向くべきじゃなかった。


 だって、その少女は血まみれだった。肌も制服も、ドス黒い血で覆われていた。


 それだけなら、まだわかる。図書室でケガをしたんだろう。でも、なにより問題なのは、その少女の体が半透明だってこと。つまり体の向こう側が、透けて見えるってこと。


 血まみれで、体が透けている。どう考えてもふつうじゃない。


 わたしにとって、得体の知れない人影は、人の影とは限らない。


 わたしはいわゆる、視える人だった。幽霊とか妖怪とか、ふつうじゃないものが視えてしまうタチだった。


 わたしに気づいたのか、うつむいていた少女が顔を上げる。


 涙でぐちゃぐちゃになった顔で、血まみれの少女は怨めしそうにわたしを見ている。


 水橋さんが言っていた、アグリさんにちがいない。


 グスっ、グスっ、グスっ


 泣きながら、わたしをにらむアグリさん。まるで、わたしが泣かせてしまったかのようで、胸が痛んだ。


 それとも、やっぱり、わたしのせい?


「……あ、あの、どうして泣いているのですか」


 勇気をふりしぼって聞いてみる。しかしアグリさんは、わたしの問いに答えない。それどころか、ますます怨めしそうに顔を歪ませるのだった。


「あっ」


 そうだ。アグリさんには、対処法があったじゃないか。アグリと何度も唱えること、だっけ。


「……アグリ」


 とりあえずつぶやいてみる。効果は、覿面だった。


 アグリさんは短く悲鳴をあげ、苦しそうに身をよじる。


「アグリ、アグリ、アグリ、ア……」


 五つ目を唱えようとして、やめる。なぜなら、アグリさんがあまりにもつらそうにするから。


 頭をかかえ、泣きながら震える姿は、見ているこっちがつらくなる。


 これじゃあ、ほんとうに、わたしが泣かせているみたい。


 アグリを唱えないと襲われるんじゃ──そんな不安が頭をよぎったけれど、これ以上唱えることなんて、できなかった。


 だけど唱えてしまった影響なのか、アグリさんの泣き声がどんどん小さくなって、半透明の体はもっと透明になっていく。


 やがて、朝霧が空気に溶けこんでいくかのように、アグリさんの姿はスッーと消えてしまった。


 残されたのは、なんとも言えない後味の悪さ。小山内さんのときといい、わたしは嫌な別れ方しかできないのか。


 深く深くため息をつく。もう、いいや。もう、帰ろう。


 宿題をしていた場所までもどると、わたしが座っていた席のとなりに、男子生徒が座っているのが見えた。


 ほかにも席はあるのに、なんでわざわざとなりに。


 気まずいなぁと思いつつ、机の上のノートを回収しようとして──気づく。


 その男子生徒は『鬼全体解剖図』を読んでいた。


 いったいどんな人が、こんな本を読むんだろう。わたしは反射的に、机から目線を上げ、


「うきゅぷっ!?」


 と奇声をあげてしまう。わたしって、ほんとうにおどろいたとき、『うきゅぷっ』とか言う人間だったのか。


「……うきゅぷ?」


 わたしの奇声に、男子生徒は首をかしげる。


 わたしがおどろいた理由、それは、男子生徒があまりにも美しかったから。


 キリッとした涼しげな目、スッと通った鼻筋、新雪よりも白い肌に、宇宙よりも黒い髪。整いすぎた顔は、もはやつくりものめいていた。『美少年』という題名の、芸術作品だと言われれば信じてしまうくらいに。


「きみは、鬼の正体ってなんだと思う?」


 美少年さんが、突然問いかける。


 お、鬼の、正体……? 言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。


 いや、そもそも、ほんとうにわたしに話しかけているのだろうか。こんな美少年が、こんなわたしに。


「きみは、鬼の正体ってなんだと思う?」


 美少年さんがくり返す。やっぱり、わたしに話しかけている……!


「えと、えっと、鬼の……?」

「うむ、鬼の正体。そうだな、たとえば桃太郎の鬼の正体は、なんだと思う?」

「えっと、その、急にそんなこと聞かれても……」


 美少年さんの大きな瞳に見つめられ、わたしはあわてて目をそらした。ただでさえ男子と話すのは緊張するのに、こんなに美しい人と話すなんて無理っ……!


「ふうん?」


 どこか不満げに、美少年さんがうなった。


「てっきり、きみは鬼が好きなんだと思ったんだけど」


 鬼が、好き? なんで?


「だってきみ、ボクの顔をぜんぜん見ようとしないから」

「え?」

「となりに人が座っていたら、まず顔を確認するだろう? だけど、きみはしなかった。それよりも、ボクの読んでいた『鬼全体解剖図』におどろいていた。『鬼全体解剖図』はティーンの女子の目を惹く本とはとてもじゃないが言えない。鬼に興味がある人間でなければ注目しない──と、ボクは思ったのだけど」


 そう言って、フッと息をはく美少年さん。ただそれだけのことが、とても絵になる。


 というかこの人、自分のことボクっていうんだ。クラスメイトの男子はみな、自分のことをオレという。


 この美少年さんの『ボク』にはひ弱な感じはまったくなくて、むしろ芸術作品めいた雰囲気にマッチしていた。


「でも、ボクの考えはまちがっていたようだ」

「……えっと、一つ、聞いていいですか?」


 初対面の人に、わたしから質問するなんてめったにないことだけど、この美少年さんはつくりものみたいで、つまり人っぽくなくて、まだ話しやすかった。


「いいよ」

「その、ちらっと顔を確認してから、本におどろいたって可能性は、考えなかったんですか?」

「その可能性はない」


 美少年さんは即答した。


「ど、どうしてです?」

「たとえ、ちらっとでもボクの顔を確認したんなら、その時点でおどろいて固まるだろう? 『なんて美しい顔なんだ!』って」

「…………」


 言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。


「その時点でおどろいて固まるだろう? 『なんて美しい顔なんだ!』って」


 聞こえてないと思ったらしく、美少年さんはご丁寧にくり返してくれた。


 美少年さんの口調は自慢気ではなく、照れも感じられない。


 春の後に夏が来るとか、雪に触れると冷たいだとか、そんな、当然の事実を述べているかのような。


 すごい、こういう人もいるんだ。


 自分のことを堂々と美しいといって、まったく嫌味にならない人。たしかに、美しいと納得してしまう人。


 わたしとは、真逆の人。


「きみは『鬼全体解剖図』を見て、それから目線を上げてボクを見たんだ。それまでは、不自然なくらいにボクを見ようとしなかった。そうだろう?」


 そう、そのとおり。わたしは人を見るのも、見られるのも苦手。


「だから、鬼が好きなんじゃないかって思ったんだ。人よりも、鬼が」

「お、鬼は好きじゃない……です。鬼だけじゃなくて、そういうオカルトは、ぜんぜん好きじゃない、です」

「そうか」


 そう言ってうなずく美少年さんは、つくりものめいた無表情なのに、どこか残念そうに見えた。


 人よりも鬼が好きなのは、美少年さんのほうではないか、そう思った。


「あ、あの」


 残念がらせてしまったという罪悪感が、わたしに口を開かせた。


「さっきの、質問の意味って……?」

「そのままの意味。鬼の正体は、なんだと思うか」

「正体って、鬼は鬼、ですよね? 妖怪? 化物? アヤカシ? わからないけど、そういうもの……」

「なるほど」


 美少年さんは目を閉じた。なにやら、頭の中で考えを巡らせているようだ。


 目を閉じると、彼はますますつくりものめいて見えた。偉大な芸術家によってつくられた、精巧なビスクドールだと言われたら信じてしまうくらいに。


 どれくらい時間が経っただろう。


 やがて、


「とりあえず、座るといい」


 美少年さんはそう言った。


「座る?」

「座るといい。長い話になるから」


 え、えぇ~、長い話になるんだ……。

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