第24話

「ただいまーー!章、タオルーーー!」


扉の開閉音に続き、間延びさせた声が聞こえる。甲本先輩は一瞬げんなりした表情を浮かべたが、すぐに含み笑いをしつつ立ち上がった。


「やっぱりな。」


先輩は一言残して部屋を出たが、一歩戻って上半身だけこちらに覗かせた。


「庭掃除は明日な。」


そう言うと先輩は今度こそ本当に部屋を後にし、俺は買い出し班の持ち帰った荷物を受け取ろうと玄関へ向かう。すっかり明るくなった陽が白く入り込み、一人分のシルエットが下駄箱の前の地面に張り付いているのが遠目に見えた。


(ん?一人?)


少し小走りに辿り着いた先で立っていたのは確かに一人で、その姿を見て先程の一言の意味が分かった。

全身ずぶ濡れの、香取先輩が立っている。

晴れたばかりの陽を受けて黒染めしたばかりの髪がキラキラ光る。


「やっぱり…。」


「なにが?ただいま!」


「おか、えりなさい…。」


ただいまと言われたらおかえりと返すしか知らずにそう応えたが、不思議な感覚だ。にかっと歯を見せて笑った先輩の顔が、さっき見た甲本先輩の笑い方と少し似ている気がして、二人の友人関係が確かに長いことが窺える。


「茂手木が傘持ってませんでした?」


「あんなんに男三人も入らないよ。俺は先に着いて、鍵開けとく係!」


「それにしたって傘買うとかあったでしょう。」


「繰り返してとんでもない数の透明傘持ってるんだよね。すぐ止むと思ったし。」


「よくあのゲリラの中走りましたね。」


そう言った俺の顔の横を白いものが横切り、次の瞬間には口を開きかけた先輩の顔へ乱暴に被さった。真新しくふわふわのタオルだ。振り向くと甲本先輩が呆れた顔で近付いてきた。


「確かにすぐ止んだが、すげぇ量だったな。」


恐らく、そうだねと言ったらしきもごもごが聞こえ香取先輩はタオルをひっぺがした。


「ここまでになると思わなかったわ。最初はほんと、ちょっとの小雨だったから。」


風呂上がりのように頭を乱暴に拭きながら話す先輩の声は、何がそんなに楽しいのか可笑しそうに弾んでいる。それはいつもか。

甲本先輩がにやりと笑う。


「夏の通り雨をなめるなよ。」


「なんで章が偉そうなの?

結局こんなに晴れちゃってさ!シャツなんか、もはや乾いてきてたよ。

ほらっ。」


「おいやめろや。」


甲本先輩の顔に、タオルよろしく生乾きのシャツが投げつけられた。長く関わった友人がいなくて分からないがこれが普通なのだろうか。

早口で交わされた会話が落ち着くのを見計らって、俺は素直に抱いた感想を口にした。


「仲良いっすね。」


「お、安藤も仲良くなるか?」


そう言いながら甲本先輩は、シャツをこれまで以上の勢いをつけて持ち主に投げ返した。シワになりますよ、今更ですけど。


「普通で大丈夫です。」


「なんだよ、つれないな。」


思わず笑うと、今度はやりとりを見ていた香取先輩がでかいくしゃみの後に言った。


「なんか、仲良くなってない?」


「そうか?」


「まぁなるか、似てるよね二人、多分。」


よっこら、やっと靴と靴下を脱いだ香取先輩がひとり納得するように言った。


「「どこが?」」


「はは!

あーっとね、そういうとこだよ。」


大口を開けて笑った後に香取先輩は続けた。


「あと、安藤くんも本好きだろ。なんかいろいろ読んだりしてたよね、

部室で。」


「嫌いではないですけど、あれはほとんど課題の…。」


文学部に在籍した時点で確かに本は好きな方だと思う。授業で使う参考書も必然的に文学を中心に扱う内容だし、以前は作曲家や楽譜の解釈のために本を開く習慣がついていた。音楽と文学は意外なほど近しい。


「読書なんて誰でも、」


「ぶぇっっくしょい!」


香取先輩の派手なくしゃみが俺の言いかけた言葉を搔き消す。


「あーもう着替えてこい!

床濡らすなよ、さっき掃除したばっか!」


「無茶言うな!」


鼻を啜りながら香取先輩は荷物のある部屋へ向かった。その背中を見送り、途端に静かになった空間でぽつりと呟く。


「茂手木たち、遅いな。」


「そうですね。」


廊下の角を曲がった先からもう一度盛大なくしゃみが聞こえ、顔を見合わせて笑ってしまった。



それから20分ほど経って慈円先輩と茂手木が戻ってきた。着替え終わった香取先輩がMOTEGI菓子に手をつけた頃だった。

ゆっくり丁寧に玄関扉が開かれる音を聞くなり、俺は今度こそ買い物袋を受け取るために部屋を出て玄関へ向かった。

二人は既に靴を脱ぎ始めている。特に濡れた様子はないが、背中に声をかけた。


「雨、大変でしたね。」


「安藤くん、ただいま。うん、一時はすごかったね。」


慈円先輩ののんびりした言い方は言葉とは裏腹にどこか他人事のようだ。


「茂手木、傘は?」


濡れていないどころか、傘が見当たらないことに気付いた。玄関先にひろげられている訳でなく、二人の手にも握られていない。


「さしてないよ、止んでから帰ってきたから。」


ずぶ濡れで駆け込んできた先輩と違って賢明な判断である。男三人どころか二人でも一つの折り畳み傘には収まらないだろうも思っていた。ましてこの身長差だ。


「先にこれ冷蔵庫に入れてくれる?」


慈円先輩が差し出してきたのは保冷バッグだ。出掛けていく時こんなのを持っていて記憶は無い、とすれば。


「もしかしてこれ、鞄に入れてたのか?」


「そうだよ。念のためにね。」


「その鞄は四次元ポケットなのか?」


「香取先輩にも保冷出来るから急がなくても平気って声かけたんだけど…振り返ったらもう走り出してたんだよね。」


苦笑いで茂手木の言った光景が目に浮かび、俺も同じ顔つきになった。

バッグを抱えてキッチンへ向かうと、客間から香取先輩と甲本先輩も出てくるところだった。茂手木の話した内容を伝えると、香取先輩は両手で顔を覆い「早とちりしちゃった…」と俺に聞こえるかどうかくらいの声で言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る