第23話

反射的に大きく心臓が跳ねた。

体感温度が上がったように背中と手のひらがじっとりと汗ばむ。しかし反対に首筋は冷えてきた。学食で初めて茂手木に声をかけられた日と同じ冷たさだった。


「お、れ…曲なんか作れませんけど。」


「あれ、そうなのか。長くピアノやってるとそういうこともあるのかと思ってた。」


「無かったわけじゃないですけど…」


「あぁ、やっぱり?俺なんかは全然分からんが難しそうだよな。

孝大がさ、ああ見えて中学生までピアノ習ってたんだ。苦労してたわー、結局バックレてしこたま怒られるほど。

一緒にサボって時間潰してたのは俺だけど。」


笑うと覗く八重歯が意外と鋭いだの香取先輩との付き合いは相当長そうだのどうでもいいことを考えて逸らそうとしたが、ダメだった。

隠してきたつもりは無いが、いざ俺がピアノを弾いていたと知られていたことは少なからず衝撃だった。親のことまで知っているかは分からない。


「あの、ピアノ弾いてたって、俺が。

茂手木から聞きました?」


「いや弟。」


「ん、弟?さん?」


別に茂手木だったとしても責め立てるつもりがあるのではなく単純に気になっただけだが、思ってもみない方向の答えが返ってきて完全に我に返った。


「そ、おとーと。

茂手木からなんも聞いてない?俺のすぐ下の弟、安藤たちと同じ高校に通ってるんだよ。一つ下の学年だな。」


「じゃあ今は三年すね。」


じゃあ弟さんの入学式は俺が弾きましたね

校歌。

久しぶりに思い出されたメロディーに苦い気持ちはせず、懐かしくさえ感じられるのが不思議だ。最後に弾いてから4か月が経ち、記憶も、鬱屈も、時間が薄めてくれたらしい。

部室棟に通い詰めた間は音楽のことは考えず距離をとることが出来たようだ。


「弟さんと、なんで俺の話になったんですか?」


先輩が自宅で大学生活についてあれこれ話しているイメージが無い。

当の本人はバスケットの菓子に手を伸ばしながら、んー、と記憶を辿っているのか斜め上を見つめた。


「俺が家で作業してたとき、春祭前の試作会の写真を見たらしい。」


「あれをですか…。よく俺だと分かりましたね、あんなんで。」


試作会といえば俺の突き抜けた不器用が露呈した日だ。全くもって写りのいいもんじゃなかったはずの証拠写真を見られていたというのはかなり恥ずかしい。顔中のパーツが中心に寄る。

先輩はトマト味のヘタ部分から齧って意外そうに美味いな、と呟いた。


「で、春祭にも来たんだ。屋台で対応してる君を見て、『あの人、ピアノ先輩だよね?』って。」


ピアノ先輩か。

式典の度に壇上に上がっていたら、こちらは知らなくてもあちらは顔を覚えている、というのはよくあった。しかしそれが『ピアノ先輩』なんてことになっていたとは。じわじわと笑みが表面化してきた。

4ヶ月前なら分からなかったが、今は笑ってしまえる響きとして頭で繰り返される。


「ははっ。そうですね。ピアノ先輩ですね、間違いなく。

でも屋台にまで来てたのは気付かなかったっすね。」


「安藤、てんてこ舞いだったもんな。

あいつは兄弟全員を連れてきたと思ったら開口一番『ピアノ先輩』だし。そんな話聞いたことなかったから俺も変な声でたわ。」


くすりと思い出し笑いをした後、空になった菓子の包みを綺麗に折り、顔も上げずにぽろっと聞いてきた。


「今は?弾いてないの?」


「…はい。」


「へぇ、じゃあしょうがないか。」


あっさり返されて安心したような、拍子抜けしたような、妙な気分だった。


「どういう感情の顔だ、それ。」


「大抵は、もったいないって言われたり理由を聞かれたりしてたので。」


「あー、」


先輩は小刻みに数回うなずいた。


「それ言っちゃうとさ、

甲本先輩はなんで小説書いてんですか?とか

香取先輩はなんで写真を撮るんですか?と同じだろう。

それ聞かれても、困るんだがな。何をどう言えばいいのか全くわからんよ、俺は。」


先輩は、はは、と力の抜けた苦笑いを浮かべた。


「そう、なんですかね…。…そっか。」


確かに。

書いている、撮っている、演奏する理由がはっきり言葉にできるなら、やらない理由だって言葉に出来るんだろう。それが出来ないからいつも誤魔化していた。

誰かからその話題に触れられるのが嫌だったんじゃない。答えが無い、少なくとも納得いく言葉に出来なくて苦しくなる。

なるほど、困っていたのか、俺は。

時間をかけてやっと先輩の言ったことが届いてくる感覚だった。

呆けた表情のまま先輩を見ていると、先輩も真面目な顔を作ってこちらを向いた。


「でもやっぱり、作曲はやめておこう。

安藤の作る曲、難解で暗そうだ。」


「なんすか、それ。」


「冗談だよ。」


再び覗いた八重歯につられて俺も笑ってしまった。

廊下の窓から射しはじめる晴れた陽に、軽く目が眩んだ。雨は上がっていたことにようやく気付いた。

そういえば買い出し班はどうしただろうとふと気になった。次の瞬間に玄関の戸が開く音がした。

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