第15話

ごん、と軽い衝撃が額に響いた。

ゆるゆると顔を上げる。いつの間にかまた寝ていたらしい。あくびを噛み殺してコップに手を伸ばすと、握っていたはずのペンがそこまで転がっていた。

窓辺で更に冷やされた水が喉から沁みてきて、身震いするほど冷たい。体の芯から伝わってくる感覚に目が冴えた。

記憶を整理していたはずだったが、どこから夢に切り替わったのか分からない。手元のノートには丸と長方形の組み合わさったような図形が描かれ、その先からページの端までミミズのようにうねった線が続く。この線、昼飯後の講義ノートとかで見たことあるな。

ペンを一度、くるんと指先で回し、さっき挫折したイラストを改めて大きく描いてみる。もちろん茂手木のようにはいかないが、意識を集中させてとにかく手を動かす。


二段重ね。

中心をくり抜いたふわふわパンケーキ。


文化祭における我々の屋台は、盛況だったとは言い難いが、そこそこ繁盛した。甲本先輩のアイデアから決定した円筒のフォルムが一部で反響を呼んだらしい。

調理班がせっかく器用に盛りつけても、その触感ゆえ飲食スペースへの移動途中で崩れるだろう点が最大の難点だった。

「ならばいっそクリームや具材は内側に詰めてはどうか」と。

キラリと眼鏡を光らせ、天啓のように呟いた甲本先輩の突拍子もない発言が香取先輩の勢いで形になってしまった。どらやきとかカレーパンの発想に近いんだろう。さすが、手間を省かせたら格別だった。

当の茂手木は工程や材料が守られれば、食べやすさを優先することにむしろ賛成した。発案者がそう言うなら異論などあるまい。おかげで接客班として直接パンケーキを「提供」した甲本先輩と俺の責任が大いに軽くなった。もしかしたら先輩はそっちが本当の目的だったのかもしれない。慣れない接客対応で当日は忙しなく動き回っていたが、それも少し楽しくさえ感じていたのは事実だ。

しかし、


「やっぱり、入部するなんて言ってないな。」


紙面で完成した俺作パンケーキの歪さに確信した。これほど器用とはかけ離れた俺が、自分から創作サークルに参加しようなどとは思い至らないはずである。

再びペンを回し始めて考え込んだ矢先、背後に気配を感じた。


「え?粉砂糖でもっとデコレーションしてあったでしょ。」


「うぉわっ…!?」


ちくしょう、またか!

ここ数時間なにも発していない喉からは掠れた悲鳴しか上がらなかった。

妙な反射運動のせいで思い切り膝がテーブルを揺らし、店中の視線を集めた。すいません。


「お前、後ろから声かけるの、やめろっての。」


必要以上に小さく囁き、声の主を睨み上げる。


「やっぱりここにいたんだね。」


俺の視線はお構いなしに茂手木は向かいの席に座った。

まったく。こいつ、少し図々しくなったな。脳内を巡っていた約半年分の記憶と比べると遠慮が無くなったように思う。いや、遠慮は最初から無かったか。


「なんで来た。店の準備あるんじゃないのか。」


「今日は定休日だよ。」


ずっとこの照明の元だから長い夜の只中にいる気だったが、当然ながら日をまたいでいたことを感じる。腕時計は4時半を回ったところ。なるほど始発か。窓の外の人足も増えたようだ。

大きく伸びをし、無遠慮な欠伸をかます俺に呆れたような溜め息をついてくる。


「こんな日にまで家族に心配かけるなよ。僕が誤魔化したからいいものを。」


「なんの話?」


「昨日、あの後、安藤一家がうちに食事に来たんだよ。歩くんと連絡が取れないって言ってたけど、サークルのチャットには反応してたし。だから『うちでお預かりしてます。』って伝えておいた。」


「俺は小学生か。」


「おじさんも、『遅れてきた反抗期だから』って、おばさん宥めてたよ。」


恥ずかしい。他人の目から我が家の日常を垣間見るとこんな風に伝わるのか。


「すまん、まぁ、助かった。」


知らぬところで事が大きくなり、知らぬところでフォローされていたらしい。素直に謝っておこう。

まさか本当に友人宅に泊まっていることになっていたとは思わなかった。


「僕が歩くんを不良にしてるって思われたらどうするんだ。」


「それは無いだろ。

おーい、勝手に見ないでもらえますかー。」


茂手木は俺のノートを引き寄せてパラパラめくり始めた。


「歩くんも僕の創作ノート勝手に見てたでしょ。」


「そっちのとは訳が違うだろ。」


俺のはこのふわふわと違ってとても人に見せられん。

取り留めの無さすぎる産物を、実に楽しそうに眺めながら彼はこう評する。


「相変わらず宇宙みたいなノートだね。」


「やかましい。どうせ絵心なんか無いさ。」


苦笑いでそう言い放つと、茂手木は肩をすくめ、こしょこしょと花柄を描き始めた。歪なパンケーキの上に繊細な線が足されていき非常にアンバランスである。確かに粉砂糖のデコレーションは華やかで、中央から溢れるフルーツの色合いと互いに引き立て合っていたことが思い出された。

なめらかなペンの動きにぼんやり聞いてみた。


「俺、サークルに入るなんて、言ったんだっけ。」


手は止めず、微かに笑った音がした。

「まだそこにこだわってんの?」


本当のところ、そこはもはやどうでもよかった。


「いや、それを境にして心境の変化でもあったかと思って。」


「ふぅん。」


茂手木は今度こそ手を止めて、ポツポツ、とノートをペンで指し示した。


「で、どうなの。まとめられそう?」


「あー、

なんか考えてたら腹減ったなぁ。」


返事の代わりに呼び出しベルを鳴らす。間もなく眠そうな店員がやってくる。


「ハンバーグを。あ、やっぱりチーズインのを。」


時間にそぐわない重めのメニューだったからか、注文を二度聞き返された。


「今日はオムライスじゃないんだ。」


「ここのは、中のライスが甘めの味付けなんだよ。俺は玉ねぎの自然な甘さを感じたい。」


「そうですか。」


素っ気なく聞こえた返事の後、茂手木は自分の鞄からスケッチブックを出してペンを走らせ始めた。

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