第7話
「いや…違うんだよ。」
「何が。」
「推し、っていうのは…推しのお客さんって意味だから。」
「別にまだ何も言ってないだろ。」
言い訳はした方が怪しくなる。空回って早口になったり、手元では忙しなく意味のないジェスチャーを繰り出していて数時間前のデジャヴだった。
申し訳ないことに、そこまでくると少し可笑しくなった。絆されてしまいそうだ。
しかし、はっきりさせておかないとならないことがある。昼間の緑道さんぽ中に考えていた断り文句を伝えた。
「あのさ。もしその頼みたいことっての、ピアノとかだったら悪いけど断るよ。」
慌ただしく動いていた目と腕を中途半端に開いたまま茂手木が見つめ返してきた。写楽。
「…え、ピアノ?」
「…え、ピアノ。」
しっくり来ない反応だった。一拍おいて、はっ、とこちらに焦点を合わせて呟いた。
「そっか、そうだった卒業式とか安藤くんが伴奏弾いてくれてたんだよね。母さんから聞いて驚いたよ。」
「ん?母さん??」
「保護者席からよく見えたみたいだよ。プログラムのさ、伴奏者名を見て、あーやっぱりそうだって。
うちの店によく来てたって言い出して。僕は先生が弾いてるんだと思ってたから、」
驚いたよ、と何故か照れたように片眉を寄せて繰り返した。
その表情が伝播しかけたので最後の一口となったケーキを口に運ぶ。香りが広がると同時に、言葉の当たり前の意味も浸透してきた。
茂手木は。
ピアノに向かう背ではなく、正面から、ただの安藤歩として見ているらしい。
急に沸いた実感に少し呆けて話題をあさってに飛ばしてしまった。
「…例えばさ、俺は緑堂のケーキが推しなんだけど」
「えっ?あ、ありがとう。」
話の振りが突飛だったのか礼を言われてしまった。まぁいい。
「推すってことは好きな点とか、優れていると思う点とか、あるからだろ?自分で言うのもあれだけど、ピアノ以外にポイントになりそうなところが思い当たらない。」
言ってて悲しいが、仕方ない。
だって『はっきりと覚えている訳じゃない』奴の何を推したいのか、聞いておくべきじゃないか?
少なくとも話しかけてきたきっかけを知りたいとは思った。
すると茂手木はじっと、俺の手元を見つめた。
「安藤くんてさ、綺麗に食べるよね。」
「あー…食い意地だけは一番だって家族に言われる。」
余計なお世話だと思う。
「いや、うん。そう。
オムライスも一粒残らず綺麗さっぱりだった。そういうのさ、やっぱり作る側からすると嬉しいよ。僕たまに裏で皿洗いとか手伝ってたけど、よく覚えてるんだ。あ、あの子だなって。」
「確かな記憶が皿って、なんか恥ずかしいんですが。」
「でもそれだけじゃなくてさ、」
言葉を区切ると、ぱす、と掠れた音で手を合わせた。
「所作?が、すごく丁寧だよね。もちろんうちの店でもそうだったけど、ここでも小さく手を合わせてから食べてたね。
食器持ったり手を添えたり、椅子の引き方も姿勢もきれいだし。」
「それだ。」
まさかそんな細々と観察されていたとは。
ここまで挙げ連ねられると、さすがにこそばゆい。途中から横槍を入れる機をうかがっていた。
「それこそピアノの前で叩き込まれてるんだ。椅子の引き方も、姿勢も。
だから癖だよ。丁寧ってよりは。」
猫背は、着席したときにだけ矯正される。その方が楽に感じるような筋肉の付け方にでもなったかもしれない。
「そうなんだね。でもさ。何て言うかな。
それなら尚更そうなんだと思うんだけど。
演奏とか、食事とか、その空間ごと大切にしてるんだなって感じがしてさ。
いいよね、って思ってたんだ。」
さよけ。
向けられた屈託ない笑顔からは顔を背けざるを得なかった。
顔の火を打ち消すようパンッと手を合わせる。
「ごちそうさまでした!!」
「あ、そうだ。」
何でもなかったような顔に戻った茂手木が、さっきのビニール袋を差し出してきた。
「これ、うちの焼き菓子なんだ。
緑堂のケーキを推してくれてるなら、好きだと思うから食べて。」
トマトと卵がしわだらけの袋を咄嗟に受け取った。
「あり…がとう。いいのか?」
「うん。ケーキ美味しいって言ってたって、母さんに伝えとくね。」
「ん、母さん…?」
また登場した。
ぼんやり覚えている、ふくふくとした笑顔の女性を思い浮かべる。
「なんで?」
「あれ、さっき言わなかったっけ。緑堂のメニュー、特に甘味系は母さんがここの人と考えてるんだ。」
言ってない。
新規情報すぎる。道理で学生用の食堂に、しかも言っちゃあ悪いが、ふんわりとボロい棟とは少し雰囲気の違う味わいのはずだ。
なんというか…まったく。
テンパると口が回るくせに、平常時は一言足りない。言わなくても済むことと言わないと伝わらないことの判断基準が俺とはズレている。
噛み合わないな、という最初の直感は当たっていたらしい。
それでも、不思議と悪い予感はしていなかった。
「その…よろしく伝えてくれ…」
「うん!」
とりあえずどこかの休みの日、久しぶりにMOTEGIへ行く方が良さそうだ。
その先で出会えるであろう一皿の至宝と、うやむやになりかけた話題に気を向け平静を取り戻そうとした。
「で?」
「ん?」
まだ融けない満面の笑みが返った。
「で、頼みたいことって?」
はっとする顔に『忘れてた』と書いてある。表情筋が忙しそうだ。
「大丈夫、ピアノとかは関係ないから。」
「そーみたいっすね。」
「その…サークルの出店、手伝ってほしいんだ。」
ほんとに関係なさそうだな。
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