第6話
無事ではないが講義は終わり、生徒がそれぞれ散っていく。休憩時間は10分しか無いため入れ違いで次の講義生がなだれ込んできた。
「さっき、どしたの。」
重々しい鞄をよっこら持ち上げ、きょとん顔の茂手木が聞いてきた。まさか自分のことを考えていたなどとは当然思っていないだろう。
ひとまず出るぞと指で示す。
「茂手木、くん。5限は?」
「無いよ。くん、もいらない。」
「そうか。俺に頼みたいことっつってたな。」
聞こうじゃないかと歩き出す。
「え、本当に?」
「身構えなくても逃げないよ、もう。悪かったって。」
無理もない反応だが、苦笑が漏れる。
「緑堂でいいか?俺、チーズケーキ食いたいんだけどさ。」
「安藤くん他に行くとこ来ないの?」
「やかましい。」
諦めきれなかったんだよ。
空の色が少し変わってきている。緑堂はまだ滑り込み開いていた。
さっきより静かで匂いだけが昼時の活気を残していた。
ほぼ毎日嗅いでいたこの匂いも、思い出されたレストランの光景のおかげで少し懐かしくも感じる。単純なものだ。
脳内で記憶を司る領域と嗅覚に関する領域が近くに位置するというのは、どうやら本当らしい。
ガラスケースには3種類のカットケーキが規則正しく並んでいた。
目当ては当然右端のチーズケーキだったが、煌めく整列に逡巡してしまう。食券をつまんだ指先をゆっっくりカウンターへ掲げる。
真ん中のチョコレートケーキや左端のフルーツタルトが一層の光を放って見えた。いや俺はチーズケーキをだな。
宙でぴたりと手が止まってどれだけ経ったのか。自分が一人で来たのでは無いことを思い出した。
慌てて振り向くと茂手木は席群をさっさと進んでいた。距離から考えてものの数秒だったようだ。
「すいません、」
やっと決まったかと仕方のないものを見るような笑顔で女性が顔を上げた。
「…チー、ズケーキをください。」
ガラスケースから手渡された皿はもろともひんやりとしていた。それとよく似合う硬質的なツヤめきが三角ケーキの天井を覆っている。早くこの全容を味わいたい。
座席へ向かうと俺の定位置付近でドコンと荷物を下ろす音がした。今度は隣ではなく、向かいに座っている。
「悪い、待たせた。」
大切に抱えられた皿を見て、目を糸にして微笑まれた。よほど嬉しそうな顔をしていたのかもしれない。
なんだか少し気恥ずかしい。
んん、と小さく咳払いをした。
「レストランのMOTEGIって実家だよな?」
と最終確認した。
添えられたフォークを手に取るとこちらもキンキンに冷えている。
いただきます。合掌。
ちらと向かいを見ると、唇を引き結び瞼の引き上がった表情を浮かべていた。すぐそれまでのタレ目な笑顔に戻る。
「あ、思い出した?」
「やっぱりそうか。」
思い出したというより、ほぼクイズだった。
確かにうっすら、うっっすら幼い頃に店で遊んだようなそうじゃないような何とも曖昧な記憶が浮上していた。黙々とケーキを味わいながら整理する。しかし美味いな。
ガバッと頬張った一口目、微かに柑橘系の風味がした。上から覆っていたのはレモンのゼリーだった。徐々に溶けだし香りが増していく。ケーキのまったりした触感とバランスがいい。選んで正解。
あとはひたすら、ちまちま食べ進める。
「先に教えてくれよ、もう少し早く思い出せたのに。」
声色から口元はにやけてしまっていることが分かる。
「いやごめん。僕もはっきりと覚えてる訳じゃないし、どうかなぁと思って。
なんで急に思い出したの?」
「それは…」
どこから話せばいいんだ?
「さっき、授業……講義前。
鞄の中身が少し見えたんだ。悪い。」
聞いた本人は、え、という口の形で一瞬固まってしまった。こっちも、ぎしりとフォークを止めてしまう。
これ、土台はごまの練り込まれたビスケットなのか香ばしいな。
違う、そこじゃない。
慌てて付け足す。
「あれ、あのイラストの描かれたビニール…」
「…あぁ!あぁ、なんだ、あれね!」
ほっと融解した笑顔で荷物を開けた。そんなに見たらまずいものでも入っているのか?
カサカサと音を立てて目の前に出されたのは、イラストのプリントされたビニール袋。
「そうこれ。見たら、昔行ったことがあるのを思い出してきた。音楽ホールの近くだよな。」
「うん。コンサートとかあると結構混んで大変なんだよ。」
「そうだろうな。」
自分も演奏発表会のためにホールまで行き、帰りがけ家族と行ったんだった。
細かくは言わなかったけど。
「あとは…講義中にオムライスの話題が出ただろ。あの辺で思い出した。」
「はは!あの時ね!でっかい声だったもんね。」
一日二度もな。
「でもよくそれで思い出したね。まぁ毎日前を通ってるし、看板も大きいからね。」
毎日、というワードに再びヒヤッとしかけたが、考えてみると当然だった。
春から通学に利用してるバスは、ホールの目の前の停留所から乗り降りしている。必然的にMOTEGIの前も通りがかっているはずだった。
「じゃあここ一、二週間、俺を見てたってのは…」
「ん?うん、僕も最近は早めに帰って店にいるけど、安藤くんも夕方すぎにはうち通るよね。」
「あぁ…うん……」
うん。
小さくうなずき、緩やかでなだらかな納得を自身に促した。急激に腑に落とすと顔色がまた沸騰してしまう。
つまりあれだ。
茂手木は家の前を通りがかる俺を目撃していたというだけのこと。
まぁ多少は気にかけたのだろうが、見知ったやつが視界に入れば目で追うだろう。それだけ。
さらっと言われると、本当に何でもないようなことだと思われた。
うん。
ゆっくり息をついてみたが努力も空しく、頬に熱が集中してくるのがわかった。嗚呼。
「なるほどね、なるほどな!」
ごまかすように、溌剌と声を上げる。
「すまん、帰り時間とかサークルとか、やけに細かい話するから張り込まれてたのかと。」
つまり、俺の勘違いで大事に膨らませていっただけである。
「え?あーそういうことか!ごめんごめん、急に言われても驚くよね。」
人の良さそうな顔で言われると胸にくる。
勝手に勘違いして、逃げた。
悪いことをしたと思
「いくら推しでも追いかけ回したりなんてしないよ。」
あん?
「推し?」
「あ、」
朗らかな笑顔でピシリと止まった。
しまった、という空気が茂手木から流れてくる。
勘違い、なんだよな?
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