第5話

「あ、あれ、待って待って!安藤くん、何で!!」


食器の返却口で礼を言い、そのまま足早に出口へ。扉に手をかける頃になって遠くの方から焦った声が追いかけてきた。

喧騒の中でも低めの声は案外よく通る。

この距離で名前を呼んでくれるな、とは思った。きっと周囲の安藤某たちが一斉に振り返っていることだろう。

扉を引くと緑の風に押し返されそうになるが一旦この罪悪感は振り払うことにする。

外に出てしまえば、なんと麗らかなことか。

いやぼんやりしていられない。


逃げよ。



出てすぐ右脇から伸びる小道に入る。

正面の緑道からではすぐ追いつかれるだろう。

普段から一人でいられる場所を探し、ダンジョンをひたすら歩き回った甲斐あって隠れ道に詳しくなっていた。

数歩入り込むだけで先程までが嘘みたいに静かだ。ふんだんな緑を浴び、頭のてっぺんまで吸い込みながら歩いていたら少し冷静になった。

するとより浮き彫りになる疑問符。


何だ?

「一、二週間見てたんだけど」って、

なんだ???



「頼み事がある」なら見守らず、取っ捕まえればいいだけだ。それこそぼっち相手にその機会はいくらでもあったろうに。

緑堂でも話しかけるきっかけをうかがいまくり、結果あのドッキリが彼知らず引き起こされた訳だ。根に持っているのではないが。

そんなに俺は近寄りがたかったか。

あるいはそうかもしれないが、話すのにそこまで躊躇する内容だったということなのでは?

一人の頭でぐるぐる考えてもロクな答えが浮かばないからやめよう。

軽いストーカー宣言に恐怖して逃げてきたが、結果として面倒事は避けられたのなら良かった。オーライ。


…良かったんだよな。


前から規則的に車体を揺らす小型トラックが近付いてくる。すれ違うために土壁へ寄った。

足を止めたがばかりに緑堂での最後の瞬間が蘇った。


扉を押し開けた一瞬だけ、風に煽られて振り向いてしまった。


あの盛大に情けない困り顔。

あんな雑踏の中なのに。

見つけたくないものほどハッキリと認知できてしまうのは何なのか。

一瞬が写真のように焼き付き、頭を占める。

振り払った罪悪感が一気に戻ってきた。竦む。

ざわりと大きめに響いた風が乱暴に前髪をはたき、急に濃くなった緑の匂いで顔を上げる。トラックはとっくにいなかった。


しかしまぁ、もうどうしようもない。

ということも無いが、もう済んだ話ということにしよう。

また静けさが帰っている。

結局わかったことと言えば、自分に逃げ癖がついたということだけだった。



一人分の足音に賑やかな声が重なりはじめ、右手側の緑が途切れた。部室棟が見えてくる。

大道との合流地点だ。

表側からでもまぁまぁ趣深い佇まいだが、裏から見ると尚ボロい。

塗装がぺりぺりに剥がれた手すりには傘やらTシャツやらが干してあり、沿う階段では数名の男子学生がはしゃいでいる。

遠目からでもわかるほど張り切ったじゃんけんの最中で、負けたと思われるメガネが段に膝をついた。階段の強度に若干の不安を感じる。

ぼんやり眺めつつ、学内で誰かと話したのは久しぶりだったなぁ。などと考えていた。



「あ、来た!安藤くん!!!」


残念。『済んだ話』にはできなかった。

2マス戻る。


講義室へ着くや否や、座席群を左右に割る通路から茂手木が飛んできた。

距離をとって声をかけるなってば。


「なんでいるんだ。」


「僕もドイツ語選択なんだ。」


…そりゃそうだわな。

じゃなきゃいないよな、そう思うよ。

「あんたなら講義とってなくても来そうだけど。」


思考と言葉を入れ違えてしまった。

茂手木には聞こえているのかいないのか、意に介さない。

実際、あの場からは逃げたって行動が把握されてたんならすぐ見つかるだろうなとも思っていた。

あ、言葉にするとやっぱり怖いぞこれ。


「びっくりしたよ…気付いたらもう出てっちゃってるから。」


「いや、結構な大声で呼び止めてきてたよな。」


中央口から一番近い席につく。


「えー…聞こえてたなら止まってよ…」


当たり前のように隣の席へ移ってきた。もう何も言うまい。

あの膨れた肩掛け鞄が、見かけ通り重量感ある音で机に置かれる。

ほんとに何が入っとんだとまじまじ見つめてしまう。

視界に気を取られてしまって疎かになった口から本音が漏れた。


「悪い、ちょっと怖かったか、ら……」


鞄から取り出されたノートやらペンケースに混じって、気になるものがあった。

…なんだっけ、あのマーク。

よくある白地のビニールにプリントされたトマトと卵。

いやトマトと卵なんだけど、そうじゃなくて。

思い出せないうちに、再度ガサガサとしまわれてしまった。


「え、こわい??」


聞き返した茂手木の声に、開講のチャイムが重なった。

高校までと違い、大学の講義は開始がルーズになりがちだが、このドイツ語αは予鈴と同じタイミングで前方扉が開く。いかにも「語学の先生」という感じの白ひげ老紳士が入ってくる。

室内は未だざわついているが、隣の茂手木は話を続けようとはせずに自然と黒板へ向き直った。この辺に同じ母校を感じる。

…そうだ、出身校同じなんだった。

今時めずらしく紙の辞書にはご丁寧に記名がされてるのが視界に入り、ますますだ。 


『 MOTEGI ITO 』


ん?


思わず二度見してしまった。既視感がある。

黒板前では紳士先生がマイク片手に例文を書き連ねている。

周囲のざわめきは既に、紙に書き写したりPCに打ち込んだりと硬質的な響きに変わり始めた。

しかし今それを始めてしまうと、何となく頭の片隅がふわふわする「思い出せそう」な感じが逃げる気がして手を動かせない。

自分の手元、真新しいページにさっきの文字が浮かぶ。

MOTEGI。

右手の中で、指の間を縫うようにペンが一回転する。

もちろんそりゃ同じ学校しかも隣のクラスにいたとなれば、覚えがあっておかしくないし然るべきとも思う。

しかし今の今まで全くと言っていいほどピンと来なかった。それも失礼な話だが。

覚えがあるというか、目が憶えている感覚。名前を聞いただけでは感じなかった。

しかも学校とかじゃなくて、もっとこう、親しみのあるモヤモヤが霞のように後頭部を刺激している。

しかもこの霞には、あたたかい匂いが漂っているようだった。

ぼやけた情報を手繰り寄せようと鼻をすする。ダメだ。当然だが、匂いがはっきりとはならない。

ペンは回り続けている。

ついさっき嗅いだ気をするし、久しく触れていない気もする。


「オムライスを、作る。」


あぁそうだオムライスか!これ炒めた玉ねぎとチキンライス合わせてるときの…


は?オムライス?


急にその単語だけ際立って聞こえた黒板へ目を向けた。

文節ごとに区切られた例文は、

『 オムライスを作るため、トマトと卵、ライスを買いに行く 』。

ペンは回り続けている。

霞がパステルな黄と赤に染まり、輪郭があと少しではっきりすると感じた瞬間。さっき茂手木の手の中で見かけたビニールのイラストが割り込んできた。

チョークの柔らかく荒い筆致でトマトと楕円の卵が寄り添うように描かれたあのマーク。

MOTEGI。

ピースがかちりと嵌まった感覚がした。



「あ"っ!?」ぁーーーっと。



取り落としたペンが床に転がった。

ざざぁっと俺以前に座る生徒が振り向く。俺以降の座席からも視線を浴びているのが背中に伝わる。

やってしまった。

額を打つかというくらいの勢いで前傾し、机と平行姿勢をとる。

顔に血が巡りまくっているのがわかる。

隣の席になんて目も向けられない。

最後には紳士もゆるりと振り返ったが、こう告げた。


「うん、そうだね。

この3つの食材の中ではライスだけは複数形が無いんだ。複数形の変化については教材の78ページに一覧があるからそちらを使ってそれぞれ説明します。」

違うんだ。そこじゃないんだ、先生。


「…すぃません。」

少々目立つ声を出しました。


いまだ赤の引かない俺のやらかし顔へ、紳士から微笑みが返されてしまった。

教室一帯の視線が俺から逸れる。

ただひとり隣のふわふわ髪だけは、未だにこちらを盗み見てくる。


君だよ、君のおかげで今日こんなのばっかりだよ。

「 キッチン MOTEGI 」のお坊ちゃん。

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