第4話
後ろをついてくる彼が口にした人物は、正直言えば耳に良い響きではなかった。
(ちばけん、ねぇ…)
例の野暮ったい、もとい、ある意味エモい出身校で数学担当だった。はず。
そこんとこ文系選択からすると少し曖昧だ。はっきり憶えているのがチョーク片手に黒板前、ではなく竹刀片手に正門前に陣取る千葉教諭の姿のせいでもある。
少々かわいらしく聞こえる呼び名は愛称でも何でもなく、その由来を知る者が聞けば「あー、あいつね」と大方はうんざり顔をする。
でもそれ自体と5分前の俺がわかりやすく動揺したのとは別の話だ。
大した関わりもないから嫌いではない、まっったく好きにもならなかったというだけで。
大学の (俺にとっては) 中心部で前触れなく振られた話題が高校だとは思わなかった。
煙たがられている点を除いて、いやもしかしたらそこも含めて珍しくもない教師だが、ここで名前が出るには不似合いだ。
返事が出来ないまま定位置の椅子につくと、ふわふわ髪は横に立って勝手に話を進めた。これから食わんと座する真横に立ち続けるつもりか、落ち着かんだろ。
いただきます。
「思い出したよ、隣のクラスだったかな。若林先生かぁ。」
また懐かしい名を。
いや卒業から2ヶ月も経っていないのだから、そうでもないはずか。
定年を迎えた若林先生とちばけんが横並びだったのは、我々の在学中なら卒業した年の一度きりだ。つまり同級。
やっぱり新入生だったな。
そこはいい、もう。どうでも。
「あぁ、
…3-Cだった。千葉ってことはD組?」
あぁ、またか。
という溜め息はチキンライスに包んで飲み込んだ。
腑に落ちてしまったのが余計に空しいが、同じ高校しかも同級となれば、顔も知らないやつに名前を覚えられているのも珍しくない。学校式典の度にピアノ伴奏として引っ張り出されてりゃそうなる。
尤も最大の難儀は、壇上照明なんて気にならないほど燦然と頭上を照らす七色の光の方だが。伴奏依頼の遠因もそこにあった。
親や家柄という変えられない環境が放つ、その『光』を透かして自身を見られることも多かった。
そういうもんだと諦め続けたはずの姿勢がここ最近の目まぐるしさでいつの間にか剥がれていたらしい。
徐々に首筋へのぼる冷めた心地に指先までもかじかむように感じ、させまいとスプーンを動かし続ける。
まったく。やっていられない。
ない交ぜの感情が静かに押し寄せ続け、胃袋を刺激する。
勢いで皿にスプーンがぶつかるくらい根深く突き刺さってしまった。いかん、食べ物に当たるな。
学年主任だかなんだか知らんが、ちばけんめ。
いわゆる、お家事情を理由に職権を乱用して式典用譜面を押し付けてきたのは彼、いや奴だった。
ピアノなんぞ男が弾くものか軟弱者がと貶しこそすれ労いなど、奴は一度も。
求めてはいないが。
伴奏はあくまで伴走で主役ではない。
好きで名前を売りたい訳でもない。
それにしても毎回毎回おなじやつが出てきたら多少は印象づく。
そのおかげでこいつも、こ、……
だから、誰なんだ!
不可抗力で高校のクラスまで把握されているというのに、こちらの手札はゼロに近い。今のところ初対面の印象だけ。
フェアじゃないだろ、ええい名乗れ!
という小さな咆哮をスプーンに乗せ、勢いのまま次を掬い上げる。
皿のオムライスは残り、4分の1ほどとなった。
「オムライス、好き?僕は茂手木だよ。」
「ぉ……脈絡がないな。」
大口へあと一歩のところで手元が一時静止。
嫌な心の通じ方をした。顔に出たか?
一抹の罪悪感を抱き、掬った一口を置く。
「い、や、全く僕のことわからなそうだしそんなやつから声かけられたらびっくりするよねごめん、不審者にも名前があることをお伝えしたくて…」
「不審者とまでは思ってないよ。」
さっきまでの落ち着きはどこいった。
段々と早く大きくなってきた茂手木の声が、徐々にまた周囲の視線を誘い始める。
これ以上に注目されるのはごめんだ。
とにかく、
「座ったら?」
向かいの席を指し示した。ここまで引っ張るということは、やはりそれなりの用事があるんだろう。
不意打ちの自己紹介に毒が抜かれ、首筋からも指先からも冷感がふと消えた。この要領の良くはない感じに親近感すら覚える。
「え、あ、うんそうだね、ありがとう!」
小さく繰り返し頷きながら、隣に着席した。
…こっち座るかね、まぁいいや。
「それで」
「それでさ!!!!」
食い気味に話を切り出してきた。
座るや否や、意を決したように身を乗り出してくるのを左手で少し押し戻す。だから、近い。
やっぱり意外と落ち着きないな。
「安藤くんに手伝って欲しい事があるんだけどサークルには入ってなかったよね!?」
「え?いや…うん、入ってないけど…?」
なかったよね、ってなんだ。
「そうだよね、まっすぐ帰ってたもんね!」
違和感がある。まさか、
「ここ一、二週間見てたんだけど、」
前言撤回。怪しいことこの上ない。
なんだその軽いストーカー的な情報提示は。気づかない俺も呑気なのか。今後は背後に気を配ろう。
うん、よし。
転々と散る米粒を丁寧にいただき、
静かに椅子を引き、
空となった皿と盆を返しに奥へと足早に向かった。
あぁチーズケーキを食べ忘れたなぁ。仕方ない。
ごちそうさまでした。
そしてさよなら、ふわふわストーカー。
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