15‥‥私
煮ていた鍋を元栓から閉めて火を消すように、私は泡沫のような思考を打ち切った。
「どうしてそんなことを……? き、急にそんな、え……なん、で……?」
「ごめんなさい。元からあなたのこと好きではなかったし、父が勝手に決めたことだから大変不本意だったというか……。まぁ元凶の父も承諾してくれたので、きょうはそれを伝えに。
――ああ、当然のことながらあなたのお父様も了承してくれているわ。……せざるを得ない、のだけれど」
マグカップを手にとる。
タイミングよく映し出されていたニュースに速報が割り込み、三大財閥として名を馳せている〝壮玲グループ〟の現当主が、売春防止法で逮捕されたとの旨が放送されていた。
ニュースに気がついた目の前の彼は、口をだらしなく開けて食い入るように目を見張った。
「へぇ……児童買春に強制性交、脅迫監禁詐欺横領エトセトラエトセトラ。――あら、とんでもない悪人だったのねこの人……どうしたの、顔色悪いわよ?」
「ち、ちょっと……あはは、――か、確認してくる」
蒼白を浮かべて席を立った許嫁に微笑をおくりながら、私も席を立つ。
これで要件は終えた。
長居するつもりはないし、他人に成り下がった彼と話すネタなんてない。
あるとしたら、溢れてやまない想い人の色恋沙汰だけだ。
コートを羽織って喫茶店を出ると、深刻そうな表情でスマートフォンを耳に当てる男性が目についた。
特に気にかける必要もないと判断した私は、男性の背後を通って帰路につく。
灰色の空から舞い降りた白雪が頰に雫を残す。
雪化粧を纏った住宅街はどこか懐かしく息を吹き返し、不意にノスタルジックな気持ちを植え付けられた。
季節は冬。一月の下旬。
玖楽蓮に恋をしてから、早いことに三ヶ月が経っていた。
「丹代さんには、悪いことしちゃったかしら」
丹代なあさは、玖楽蓮という少年の本質を絵で描いていた。
間違いではなかった。
彼は、文字通り生まれてくる性別を間違えていた。
けれど、しかしながら〝れいか〟が〝れん〟で良かったと心底おもう。
初めて神様に感謝した。
そして、産んでくださったれんのお母様にも、当然感謝の念を送った。
少額ではあるがお金も添えて。
この感覚の正体に気がついてから、私の行動は早かったとおもう。
私にまとわりつくしがらみを排除するために、大金をはたいて情報を買い漁った。そしてデタラメな噂を流し情報を撹乱。時にはれいかを使って、時には徹夜で証拠を手に入れた。あとは的確な人選を配備してうまくそそのかして終わり。
案外簡単に事が運び、今の私は有頂天だ。
掃除も片付いて、風呂上がりのようなサッパリとした気持ちでこの日を迎えることができた。
「早く会いたいなぁ。会って、抱きしめたい」
キスして舐めて触れて、深く身体を抉りたい。なんでもいいから私が好きだという証拠をれんに刻みたい。
その前に、ひとつだけやり残したことを終わらせなければならない。むしろここからが本番で、骨が折れそうだ。
スマートフォンの着信履歴から丹代なあさを選び、通話ボタンを押した。
丹代なあさとは定期的に会うようにしていた。
頼んでもいないのにれんの情報を流してくれるからだ。
この前も、クリスマスに告白したが、れんはローストターキーに夢中で聴いていなかったそうだ。
さらにはジュースを装ってスパークリングワインを飲ませて酔わせようと画策したようだが、一向に酔わず逆に酔って眠ってしまったというしょうもないオチを六時間に渡って事細かに聴かされた。
しかし、自称『玖楽くんの彼女』を宣っているくせに〝れいか〟のことは知らないようで、おもわず声をあげて笑った。
情報を買うお金がないのか、それとも好きな人のことは自力で調べたいのかは定かではないけれど、彼が陰で何をしているのかも知らないでひとり惚けている姿があまりにも滑稽で、昼ドラの主役でも狙えるんじゃないかとエントリーシートを勝手に出しておいた。
ひとつわかっているのは、丹代なあさよりも私のほうが上手であること。
スマホの壁紙に設定してあるれいかの写真を指で撫でながら、目尻をあげた。
彼女には悪いけれど。
悪いけれどもう、どうしようもないほど好きだから。
だから、彼を頂くことにする。
彼の心を奪い、養って、相互に愛しあえる環境作りをしなければならない。
その為の資金ならある。お父さんの保険金がある。
いま必要なのは、時間と協力者。
「春まで……春までには、 きっと……」
決意して、来たる日、最高のエンディングを想像して自然と口がほころんだ。
「――あっ、丹代さん? 私だけど……うん、ちょっと話したいことがあるの。それと渡したい物も……いつでもいいから時間作れないかな?」
郵便ポストに手紙を投函する。れん宛に書いた手紙だ。
内容は日本語で『あなたの心を奪います』。
「うん、じゃあ明日ね――」
通話が切れる。
そして春――
*
「れんぅ……私、絶対負けないから。絶対、お父さんになんか負けないから……」
背中にれんの腕がまわる。優しく包み込むように私を抱きしめて、彼は徐々に眠りに落ちていく――。
「やった……れんから初めて抱きしめてくれた……キスしちゃおっと、んぅ~~~っ」
このまま窒息死させたいなぁ、なんてお茶目な考えが過ぎる程れんの寝顔は可愛くて、額とおでこを合わせてぐりぐり押し付けてみたりキスしたり鼻を噛んでみたりキスしたりほっぺを吸ってみたりキスしたりキスしたり。
「愛おしすぎて手首切りそう。なんちゃって。はは」
それにしても、作戦はうまく極まったようで何よりだ。
れんの優しさにつけ込んだみたいで少々心苦しいけれど、しかしながらこれもクライマックスに向けて仕掛けられた舞台装置なのだ。
なら許される。オーケー、ベリーグット。
「はぁぁぁ、れんの匂いを香水にして振りかけたい……いやもういっそ香りの類にしたい。酸素、ダイジ……あへへ」
おっと、眠ってしまわぬ前に隠滅しておかなければ。
愛の巣を出てリビングへ。
セットしておいた音響機器を物置に使っている部屋にしまい、念のためお父さんの罵声を詰め込んだボイスレコーダを窓から投げ捨てた。
流石に六十階の高さから落とせば粉々に砕け散るだろう。
「……あ、あ、あああ!? 間違った! 間違ってれんボイスのほう投げちゃった! ああああああああ!!?」
慌てて窓から体を捩って外を覗くが、時すでに遅し。もはや姿形すら視認できなかった。
「あ、あ、あ……そんな…………」
お父さん罵声ボイスの詰め合わせレコーダーを床に置き、近くに立てかけておいた金属バットを振りかぶった。
「くそっ! しねっ! くたばれクソ親父っ!! 死んじまえ――ってもう死んでた」
スッキリした私はシャワーを浴びるために脱衣所に向かい、気がついた。
れんの眠っている部屋の鍵を閉めていないことに。
万が一もないと思うけれど、れんが逃げ出すなんて。
うん、そうだ。れんが逃げるワケない。逃げる理由がないもんね。――でも。
「信じてるからね、れん……ふふ、ふふふ」
きょうは長風呂にしよう。少し前に頂いた入浴剤でも使って。
罠を仕掛け終えた私は下着をカゴのなかに放り投げて、浴室に足を入れた。
「ちょっと期待してたり……ふふ、どっかで聴いたような
お仕置きはどうしようかしら。
私が入った後の湯船でウォーターボーディングとかとても愉しそう。
手錠もつけて、れんのれんれんを後ろから手で虐めながら。
窒息しながら迎える絶頂ってどんな感覚なのだろう。ぜひ感想を聴きたい。
それからしばらく経って、浴室の外から奇声にも似た悲鳴があがった。
「ふふ。ふふふ――」
お仕置きタイムのはじまりだ。
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