08‥‥僕と、せンぱイ。
弦が震える。相変わらず眠たそうな瞳の先輩は、視線だけで僕をそこへ座るよう促した。
戸を閉めて音楽室に入った僕は近くのイスに腰かけると、六つの弦を爪弾いた先輩は、静かに目を伏せた。
そして奏でるのは一昔前に流行った秋の歌。
澄んだ秋の夜空に愛しい人との思い出を綴る――そんな詩。
スゥっと汗が引いていく。
入れ替わるように、肌が
外界に触れ気体となって昇華していくドライアイスのように、あるいは口に放り込まれたチョコレートが解けていくように、先輩の喉から発せられる透き通った言の葉は染み渡るように消えていく。
きれいだ、と思った。
陳腐でいてありふれた言葉だけれど、僕のもちいる語彙を絞りにしぼった結果でてきた言葉が、それだった。
先輩の喉は、いま膝元で弾いているアコースティックギターと同じ種類の楽器なのかもしれない。
使えば使うほどいい音が出る。
精巧な職人の手によって生み出された楽器。
小兎姫ゆきという名の楽器が、鳴く。
「――――……。ふふ、恥ずかしいな。こんなこと、初めてだから」
さっきまで続いていた悪夢を忘れてしまうくらいに、僕は彼女の歌声に魅了されていた。
「とても……上手でした。きれいでしたよ、先輩」
やがて歌い終わった先輩は、童顔に似合わぬ大人びた雰囲気で頬を掻いた。
「ありがとう。――キミもなかなかのものだったよ。よもや『Homerus』を知る人間に出会えるとは思いもよらなかった。さっきは途中で終わってしまったから、ぜひ続きを歌ってはくれないかい? 次は本気で、遠慮なく」
「ぜ、絶対歌いませんから。人前で歌うの苦手なんですよ。それに、あんなクオリティの歌声を聴いてから歌うなんて、できません」
顔の前で手を振って拒否する僕に、先輩は笑みを湛えながら『homers』の前奏を鳴らす。
「てっきり歌いたくてこの場に来たのかと思ったのだけれど、違ったのかな?」
「違います」
「ふぅん? ま、いいけど――」
気にした様子もなく目を伏せた先輩は、歌い始める。
五年前に発売されたRPG【Thanatos】の、とあるキャラクターとの戦闘時に流れるBGMを。
知名度はそこそこで、ゲーム性も凡庸。
ありきたりなシナリオで数あるRPGに埋もれるようにして消えていった作品だけれど、僕はそのゲームが大好きだった。
どこに惹かれたのかと言われれば、たぶん、あのシーン。
先輩の歌声に触発されて蘇る、朝焼けのグラデーション。
愛しき少女の胸元に突き立てた聖剣が大地と縫い付けられる。
「――メアはきっと幸せに死ねたと思うんだ」
歌い終わり、開口一番に先輩はそう言った。
僕は、否定する。
「そんなはずないです。やっと見つけて再会できたのに、あんな結末は酷すぎますよ」
「その結末が彼女の願いだったんだと、いちゲームプレイヤーであるあたしはそう解釈しているよ。homersの意味は知ってる? ホメロス、それは付き従う者という意味もあるんだ。プロローグから後半まで、主人公を陰ながらサポートをしていたテルミドールという謎のキャラクターがいるでしょ? メアが死んだ直後から現れなくなった彼女とメアには共通点があるの。それはリナリアの香りがする香水を身に纏っていること。つまりテルミドールはメアだったのではないか、ってのがあたしの推測。ちなみにリナリアの花言葉は【この恋に気づいて】。これも裏付ける要因ね。
――それで、それでね。テルミドールは主人公がピンチになった時必ず助けてくれていたよね。けどもう助けてはくれないの。何故か。メアが死んでしまったから。じゃあ誰が殺したの? 無論、主人公。
きっと彼、一生彼女のことを背負って生きていくのよ。宿で、ギルドで、故郷で、戦闘で、愛剣を目にするその度にメアを思い出して後悔する。その時に、彼女は生き返る。彼の心の中で、一生。
付き従う者ホメロス――彼女の願いは、死ぬことにより叶うのよ」
――ま、彼がテルミドールの正体に気が付いたら、の話だけど。
続けて、先輩は言った。
「こうして美化されなければ影が極端に薄い彼女を、果たして鈍感な主人公が気付ける筈なんかない。確かにきみの言う通り、不幸だね彼女は。そんな男を好きになるなんて」
大きな欠伸をしながら目をこする先輩。
涙目になった先輩は机の上に置いてあった鞄の中から水を取り出すと、一口呑み込んだ。
「テルミドールのチート性能に頼ってたおかげで、後半は苦労しました。レベル上げしようにも、主人公の状態が【鬱】のせいでパーティメンバーに入る経験値も半減されますし」
「その章のボスが一番苦労したよね。突然の鬱展開にボス攻略難易度がラスボス並のせいで心折れて、そのままクリアできず終わっていく人が多いんだよ。だからレビューがすこぶる悪い」
「わかります。でも『Veronica』っていう鬱ゲーで耐性ついてたので、割とすぐに突破できましたよ」
「昨日から思ってたけど、意外とゲーマーだよね。『Veronica』を知っている人、なかなかいないんだよ。やっぱり話が合うね」
「ゲーマーなんて呼ばれるほどじゃないですよ。ゲームは好きですけど、買うお金があまり無くて。代わりにゲーム実況とかよく見てます。たまに欲しくなって、買いに行くんですけど」
「ふぅん?」
目をぱちくりさせた先輩。
興味津々といったような相貌がなんだか嬉しくて、不思議な気持ちが湧き上がってきた。
嫌なことを忘れさせてくれる、例えば、そう、友達と一緒にいる時のような――。
「何に使っているの?」
当初よりも砕けた口調で、あやふやな質問を先輩は投げかけてきた。
「何を……とは?」
「お金。キミ――パパ活で大金を稼いでるようだけど」
「……、……え?」
一瞬、何を言っているのかがわからなかった。
笑顔が引き攣る。
充満していた感情が、一瞬にして霧散した。
先ほどまで心地よく耳に響いていた筈のギターの音色が、刹那にして雑音に変わる。
「調べてみたけど、玖楽後輩、かなり大人気みたいだね。SNSで話題になってたよ。学校の成績は下から数えた方が早いのに、才能あるんじゃないかな。あたしが言うのはアレだけど、頑張りどころ間違えてない? まあ中性的よりかは女顔でとても可愛いし、だからかな。逆にズボンを履いているのに違和感がある。それが原因で浮いているんだよ、クラスで」
割れる音がした。
高い所から突き飛ばされたガラスが地面に叩き付けられたような、何かが終わってしまうような音。
堪らず僕は席を立って、逃げるように教室を出ようとして、視てしまった。
音楽室の戸。
僅かに空いた隙間から、アゲハがこちらを覗いていた。
ニタァ、と不気味に口許を曲げて――消えた。
「玖楽後輩?」
「来るな」
僕の様子を不思議に思ったのか、ギターを置いて近づいてきた先輩に告げる。
それ以上近づくな、と。
「呼吸が荒い、ゆっくり深呼吸するんだ。過呼吸の勢いだよそれは」
「く、来るなって言ってるだろ!」
悲鳴のような怒声。
我ながら脅しの利かない声音だ。案の定、先輩は思案顔で何事かを呟き始めた。
「何を怯えてる? いや、何に怯えてる? …………ああ、そうか。どうしてあたしが玖楽後輩の秘密を知っているのか。そこに怯えていたんだな」
クスクスと真顔で笑い声をあげると、一枚の写真をカバンから取り出した。
それは、新学期初日に屋上からばら撒かれた僕の女装写真だった。
化粧をして、スカートをはいて、自分よりも十以上も年上のおじさんと腕を組んで歩く、僕の姿が、そこにいた。
「親切に、この写真とその詳細が記された手紙が一緒に送られてきてね。きょうの朝だよ、下駄箱の中に入ってた。きみと出会った次の日の朝に。だから午前中のうちに片手で数えられるぐらいしか居ない友人に頼んできみのことを調べてもらったの」
――主に、バイト関係を。
淡々と、目の前にある資料を朗読するかのように、僕を買った大人たちのレビューを読み上げる先輩。
吐きそうだった。
視界の隅で、黒いモヤが瞬く。
「周知の事実なんだろう? どうしてそんなに怯えているんだい? あたしが、知らないと思ってた?」
「先輩には……だって、知られたく、なかったですから……」
何も知らない。それはつまり、正常な僕という面を視れる人。
その唯一の人なら、僕の居場所になってくれると思っていた。
だから――。
ふぅん、と意味深に頷いた先輩は、言った。
「あたしは別にきみを変な目では見ない。何故かも問わない。困りきって疲弊しているきみを、どうして傷つけられようか。だからこそ、知ってほしかった。あたしはきみの秘密を知っているということを。
それと、ごめんなさい。浅はかな発言だった。きみを傷つけるのは承知の上だったのだけれど、そこまで取り乱すとは考えていなかったな」
そして右手を差し出してきた先輩は、当然のように「仲直りの握手」と言った。
「きみがあたしを拠り所にするのなら、あたしもきみを拠り所にしよう。お互いが希望であって絶望だ。中々にロマンチックな関係性でしょ? 俗にこれを、友達という。――さ、どうする?」
「とも……だち」
僕の瞳を覗き込む先輩。
この人も、卑怯だ。
こんなの、断る方がどうかしてる。
僕は、恐るおそるその手を握った。
初めて触れた先輩の手は、とても小さくて、温かかった。
「契約成立だ。よろしく、蓮。あたしのこともゆきと呼びたまえ」
ぎこちなく笑った先輩。
どこか安堵したようなその顔は、どこかで見た覚えのある顔だった。
「きみとは話が合いそうだから、仲良くなれると思った。だから、その前の儀式的な感じで爆弾を投下した。知られたくない秘密を先に知っていた方が後ろめたさを感じなくて済むし、離れられないだろう?」
「ゆき……先輩の好感度は、ゼロからスタートですけどね」
「ふふ、ギャルゲーは得意分野だよ。好感度の逆転なんておての――――」
瞬間、ドアに嵌められたガラスが大きな音を立てて砕け散った。
ややあって、元凶である野球ボールがバウンドをしながら床に転がり、僕のつま先にぶつかる。
「先……輩?」
崩れ落ちた先輩の頭部には、きれいな赤い花が咲いていた。
「だ、誰か――」
「――うん、呼んだ?」
声に振り返って、一寸遅れて乾いた音が盛大に響き渡った。
頬を打たれたのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。
「あ……ぅ、え……?」
「え? じゃないよ何してるの寝ぼけてるのバカなのいい加減にしてよ」
一発、二発、三発――乾いた音が反響する。
ネクタイを掴まれ、引き寄せられた僕はそのまま唇を奪われ、倒れた先輩の真横で舌を舐られた。
僕のワイシャツのボタンを全て引きちぎり、弄るようにアゲハの手のひらが肌をさする。
「ほら、見せつけてやろうよ浮気相手に。私たちが愛し合っている姿を――ねえ聞いてる? おーい、れ~ん~? あぁ、ダメだ完全に放心してる。ちょっと痛いけど我慢してね、れんの為だからね――」
「――いぅッ、ぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「嘘、れんの血が飛び散っちゃった! ああああ、勿体ない!!」
ぐらんぐらん、ぐらん。
机とイスを巻き込みながら暴れまわる僕と、床に飛び散った血を舌で拭うアゲハ。そして、頭から血を流して倒れているゆき先輩。
最高にラリッた光景を最後に、僕は意識を失った。
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