06‥‥僕と屋上。 2/2

「ちょ、ちょっと待ってください! 僕、人に呼ばれてて……」


「うん? ダレ? 女?」


「え、と」




 どうしてそれを伝えなければならないの。きみには関係ないだろ、とか。

 美術部の部長さんが僕を呼んでいるんだ、とか。

 喉まで出かけたけど、噤んだ。

 噤まざるを得なかった。



 彼女の大きな瞳が、無性に怖かったから。

 また殴られるのではないかと不安になって、




「……やっぱり、なんでもない」


「ふふっ♡ 素直でよろしいっ! やっぱり性欲には抗えないよねえ」




 そんなことを言いながら、立ち入り禁止のはずの屋上のドアを開いた。




「とーちゃっく! さぁどうぞお姫様。あなたの為にお掃除しておきましたよぉ。褒めて褒めて褒めろぉ。なんなら抱いて? 私、激しくされるの好きなの」


「………」


「あれぇ? 照れてる? かわいいね、れん。愛してるよ」




 立ち入り禁止の屋上で舌を貪られる僕。

 ねっとりとした粘液と生物のように蠢く舌。

 今にも崩れてしまいそうな蕩け顔が、視界いっぱいに広がった。




「んはぁ……。やばい、キスだけでもう……でも、まだダメ。誰にも邪魔されないように、鍵を閉めないと」




 言って、アゲハは内側から鍵をかけたあと、丁寧に鎖でぐるぐるに巻き付け、南京錠をセットする。




「ふふ……はは、ふふふ。これでようやくふたりっきりぃ。ちょっと待ってね、今準備するから」




 かなり昔に廃部した園芸部の倉庫に入っていくアゲハ。

 倉庫の中も片付けたのか、空の植木鉢や鎌、土などの園芸用品が綺麗に並べられてあった。




「んんぅ? ちょっと背が足りないぞ……?」



 

 棚のうえにあるシートへ向かって懸命に腕を伸ばすアゲハ。

 する必要もないのに小ぶりなお尻を左右にゆらして、短いスカートがギリギリのラインで踊る。




「んぅっしょ、んぅっしょ……もう、すこしぃ……」




 僕が代わりにとろうか……と口をひらきかけて、やめた。

 僕より身長のたかいアゲハがキツイなら、僕は背伸びしたって無理だ。

 そもそも、無理やり連れてこられたのに助けるギリなんかどこにもない。



 視線を倉庫から、彼女が置いていったトートバックの中に移した。

 異彩を放つハンマー。

 本当にハンマーを常備しているなんて、イカれてるだろ。




「手作り……かな。この重箱の中身」




 ハンマーと一緒に入っている重箱に目を奪われた。

 


 いつも売店で、栄養の偏った弁当を買う身からすれば、手作り弁当を貰うのは大変ありがたい。しかも、女の子からなら尚更――なのだけれど。




「ごめんね、もう少しだけ私のお尻みてて~」


「いや、みてないけど……っ」




 とうとう跳躍をはじめたアゲハの後ろ姿を見ながら、唇を噛む。

 


 正直、あんなことがあったけれど、生きてきた中で一番のトラウマものではあったけれど。

 こんな状況を、楽しんでいる僕もいて、率直に死にたくなった。



 フェンスも何もない、遮断物が存在しないここの屋上からなら、安易に飛び降りが可能だ。

 四階に位置するこの高さから飛び降りれば、難なく死ぬことができる……はず。



 そこでふと、自分の言葉に疑問を持った。

 安易に……飛び降りが、可能?



 屋上の鍵は開いていた。

 どうやってここの鍵を開けたのかはわからないけれど、掃除をする期間を考えて最低でも三日前から、いやもっと前、一週間ほど前から開けられていたとしたら。



 それは、つまり――――




「自殺するなら誘ってよ?」


「うわぁ!?」




 耳元で囁かれた声に驚いて飛び跳ねる。

 いつのまにかアゲハが帰ってきていて、周到に昼食の準備が整っていた。




「れんが死んだら私も追って死ぬし、どうせなら一緒に死のう? その方がれんも寂しくないでしょう?」


「ぼ、僕が死ぬこと前提で話を進めないでください。ぜったいに死にたくないです」


「そっか、私の為に生きてくれるんだぁ。うれぴー。ちなみにれんは子供ほしい派? いらない派?」


「え、なんで急にそんな話に……?」


「いやいや重要なことだよー? これから好きなだけ――それこそ、死ぬまで私のそばにいるんだよ? ムラムラしないわけがないじゃん」




 続けて、先程から甚だ疑問であったエアマットに腰を下ろして素足を抱えたアゲハがハンマーを握る。




「そもそも子孫を残すための行為だから子供ができちゃうのは同然のことだよね。性行為は愛情表現でもあって最高のコミュニケーションなんだから、セックスがない夫婦はもうただの他人。その過程でできちゃうんだから愛の結晶だとか舞い上がっちゃうのは仕方がないことでしょう。ただでさえ少子化で周囲からは執拗に迫られる時代。知ってる? 少子高齢化の弊害。みんな自分には関係ないって思ってるかもしれないけれど、どいつもこいつも正常性バイアスで話にならない。ここで最初の質問に戻るけど、私は子供なんて。だって私とれんの間に生まれ落ちる子供は比喩でもなんでもなくまさしく天使のような子だよ? 目移りしないわけがないでしょ、女の子なら尚更。私はね、それが怖い。私にとっての最大の敵はその子なの。その子にあなたを奪われるかもしれない。髪の毛一本、小指の先程度の愛情ですらその子に注がれる。嫌。嫌だ無理、考えただけで腹が立つ。たぶんきっと確実に私はその子のことを、あなたの子供を殺してしまう。だから子供なんて作らない。

 あっ――それで? 




 卑怯だと、思った。



 そんな目で、トーンで、ハンマーを何度も何度もコンクリートに叩きつけながら、無茶苦茶な持論を展開して、その上でその質問は卑怯だ。



 そして前提からおかしいのに、そこを突っ込むことを許されない。



 なんで僕がきみみたいなイカれメンヘラ女とこの先何十年も一緒にいなきゃならないんだよ。

 僕の人生ジャンルに鬱要素を勝手に組み込むなジャンル違いの売女が。

 僕はもっと清純で優しくて包容力に全振りしたような、たとえば丹代さんやゆき先輩みたいな美人より可愛らしい女のコの方が好きなんだ。




「ぼ……僕も、べつに子供はいらないかな……」




 ――なんて、気が蟻並みに弱い僕は強情を表に出すことは叶わず、




「だよね、だよねっ。うれしいな、うれしいなぁ! れんと気持ちが一緒だ! ペアルックだね!」




 はにかんで、用済みだと言わんばかりにハンマーをしまうアゲハ。

 無骨なソレから発せられるプレッシャーは尋常ではない。



 ぽんぽんとエアマットを叩いて、隣に来るよう催促の合図を受けた僕は身をすくませながら腰を下ろした。




「エアマット、きょうこの日の為に用意したんだ。どう、座り心地いいでしょ? もっと寄りなよ、恥ずかしがってるの?」


「あ、あの、近いです」


「いいじゃん。くっつかないとできないでしょ? ローションもあるよ?」


「な……何んで?」


「ふふ」




 線の細い素足が蛇のように絡まる。

 用意された重箱はそっちのけで、彼女の大きな瞳が蛇蝎だかつのような鋭さに変わる。

 


 獲物を捕まえた獰猛な獣。

 肉食獣。

 アゲハなんて名前をしている割に、優雅さのカケラも感じない。




「ねぇ……れんぅ……してもいい?」


「あの、な、何を、ですか……?」




 返答は、彼女の美しいキス顔。



 全力で顔を逸らした僕のクビに歯が突き刺さり、たまらず悲鳴を上げた。

 


 シェリダン・レ・ファニュの女吸血鬼カーミラのごとく、クビに噛み付いて離れないアゲハ。

 甘噛みなんてレベルではない。完全に殺しにかかっている。



 引き剥がそうと抵抗するも僕より身長も手足も長い、おまけに力強い彼女にがっちりとホールドされ、なすがままに押し倒された。



 首筋に吸い付く唇。

 下から上に舐られ、鳥肌が立つ。




「あまり暴れないで、手元が狂っちゃう」


「な、なんのだよ!」




 どうにかして逃げようと必死に思考を巡らせて、視界に重箱が映った。

 こ――これしかない……!




「ま、待ってアゲハ……僕、お腹が空いた。きみの手料理を……た、食べたい……っ」




 屈辱ではあったが、功を奏した。

 ピタリと一瞬の制止。

 刹那、何事もなかったかのように起き上がるとアゲハは重箱を手に取った。



 眩しいくらいのいい笑顔だった。

 こちらが罪悪感を抱くほどの、いい笑顔。




「私、朝に弱いんだけど、れんの為に早起きしてお弁当作ってきたの~。是非食べてみて、実はお料理教室にも通って本格的に――」




 彼女がまくし立てるマシンガントークに相槌を打ちながら、内心でため息を吐く。

 いっそ、そこから飛び降りる勇気があればよかったのに。

 あの写真のように、ゆらゆらと。



 僕はこれから、僕を強姦しようとした女の手料理をおいしいおいしいと嘯いて食べなけれならないのだ。

 ――なんて、屈辱だろうか。




「はい、あ~~~ん」


「う、あ、あーん……うまい」


「本当に? ありがとうっ! 次はこれも食べて!」




 普通にしてればかわいいのに、どうして彼女はこうも歪んでしまっているのか。



 痛いことさえやめてくれれば、友達としてなら付き合ってもいいんだけど……いや、僕みたいな奴が何を偉そうに言っているのだろうか。



 次々と差し出される料理を咀嚼しながら、彼女の話に耳を傾ける。

 雲ひとつない蒼穹を、僕は少し悲しく思った。


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