05‥‥僕と屋上。 1/2

「――玖楽君、夜之よるの先輩からご指名だよ」



 ニヤついたクラスメイトの呼び掛けに、僕と丹代さんが首を傾げた。

 夜之先輩?

聞いたことのない名前だ。

 そもそも、僕と知り合いの先輩なんて小兎姫ゆきちゃん先輩しかいない。



「夜之先輩と知り合いなの?」


「丹代さん、知ってるの?」



 丹代さんが怪訝な顔で僕を見ていた。

 気のせいだろうか、声のトーンが低い。



「うん、同じ部活だから」


「えっと……美術部だっけ?」


「そ。夜之先輩は部長なの。でも珍しいな、先輩。あまり人と関わるの好きじゃないのに……」

 


 どうして玖楽君と。

 そう表情を落として、丹代さんは言った。



 美術部部長、か。見たことはあるし、何度かすれ違ったこともある。

 


 ボサボサの長髪に牛乳瓶のような丸くて大きいレンズの眼鏡が特徴的な、地味な先輩だった筈だ。

 特に接点はないし言葉を交わしたこともない。

 だというのに、どうして僕に指名が入ったのだろうか。そもそも、指名ってなんだよ。



「よくわからないけど、行ってくるよ」



 ニワトリとタメを張るレベルで頭の悪い僕なんかが考えたところで仕方ないので、席を立った。



「玖楽くん」


「なに?」



「――え?」



 独り言のような抑揚で投げかけられた言葉に首を傾げながら、僕はドアをスライドした。




「――ポッキー、食べる? おいしいよ。あ、キャンディもあるよ。どっちにする? そ、それとも……私? きゃっ、こんなところではダメだよ~う♡」




 瞬間、口許に差し出されたポッキーと棒付きキャンディ。


 観察しなくともチョコがぎっしり詰まっていることがわかる細棒と、ディスコボールのような球体が先端に陣取ったキャンディが突然あらわれ、言葉通り開いた口が塞がらなかった。



 いや、違う。

 


 お菓子に驚いたことには驚いたのだけれど、そんなことは正直いってどうでもよかった。



 思わず一瞬で現実逃避に走ってしまう程の驚愕に値する人物が、なんの前触れもなく忽然と目の前に現れたのだから。



 ゴクリと唾を飲み込み、彼女を凝視する。



 あわよくば、夢であってほしかった。



 冷や汗が、じんわりとワイシャツに染みるのを感じながら、僕は無意識のうちに呟いた。



「アゲハ……」


「うれしいなぁ。名前、覚えていてくれたんだぁ。忘れてたら思ったんだけど、必要なかったね」


「は、ハンマー……?」


「あはは……どうしたの? 廃ビルの屋上からでも突き落とされた?」



 その喩えはよくわからないけれど。

 頭上から冷水をぶっかけられたかのように、動悸が激しい。息が、うまく吸えない。



「あ、あ、あの、どうして、ここに……?」



 やっとの思いで搾り出した問いかけに、彼女は何を今更とでも言いたげな表情で、笑った。

 真冬のような寒さが僕の体温を奪っていく。全身の震えに腹筋が痛くなってきた。



 彼女の目の動き、呼吸、髪の毛一本の揺れでさえ、今の僕には恐怖の対象だった。



「どうしてって、一緒にお昼ご飯を食べるため……だよね? あ、もしかして食事前にお菓子は控えるタイプ? ごめん、忖度がなってなかった。でも忖度ってこういう使い方するのかな? さいきん流行ってるらしいから便乗して使ってみたんだけど、使い方間違ってたらごめんね。てへっ」



 あざとらしく片目をつぶって舌を出したアゲハ。

 ポケットの中に菓子類をしまうと、僕の腕をぐっと引き寄せた。



 あまりにも強い力にバランスを崩す。

 狙っていたかのようにアゲハの華奢な肢体が僕を受け止め、往来の真ん中で抱き合う形になってしまった。



 周囲からささる視線など御構い無しに擦り寄ってくるアゲハに、純粋な恐怖を感じた僕はとっさに押し退けようと両腕に力を込めた。



 ――刹那、視界がパチパチとひかった。



 脳がドロドロに蕩けてしまいそうになる甘い香水の匂い。まるで異国の地に飛ばされてしまったかのようなエキゾチックな香り。



 そして蘇る昨夜の悪夢。

 


 自分の血と涙と悲鳴と、彼女の狂気と恋と甘美に彩られた一幕。




「――さ、行こ。続きはまた屋上で、ね?」




 子供を諭すように僕を胸に抱いて、そう言い聞かせるアゲハ。

 慌てて離れようとする僕のネクタイを根本から掴むと、アゲハは耳元で囁いた。



「昨日は気持ちよかったでしょ? また喘がせてあげるから、ね?」


「――――い、いい加減に」


「んちゅっ」


「んんッ!!?」



 言葉ごと、僕の唇が呑み込まれた。

 柔らかい唇の感触。

 ヌルッとした物体が上唇をリップのように舐めとった。

 


「ふふ、へへへ、うへへへ。まずは一回目ぇ。――さ、第二ラウンドしに行こうよぉ。れんのキス顔は誰にも見せたくないの」



 胸を押し付けながら僕の腕を引くアゲハ。

 呆気にとられていた僕は覚醒が遅くなり、気がつくと階段を一段上がっていた。

 


 遅れて、背後から黄色い悲鳴が廊下を揺らした。

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