04‥‥僕と丹代さん。

 家に母さんの姿はなかった。



「ねぇ……酷いよ私から逃げるなんて」



 公園の近くに待機されてあった黒塗りの車両に引き摺り込まれ、自宅に強制送還させられた僕は、アゲハの痛烈な平手を喰らってうずくまっていた。



「私何かしたかなすっごい不安だったんだからあまり心配させないでよ誤解されるようなこともしないでねぇ聞いてるの?」



 早口に言葉をまくしたてながら、彼女の手のひらが、拳が、蹴りが僕の体を打つ。

 恐怖に体を震わせながら、亀のようにうずくまった。

 涙と冷汗で全身を染めながら、嵐が去るのを待つ。

 それしか、為す術はなかった



「イライラする。私ね、私はね、本当はこんなことしたくないの、ねぇわかるでしょ? なのに――なのに」


「うぐっ!? ご、ごごめん、ごめんなさい、ごめんなさいっ!?」



 髪の毛を引っ張られ、強引に顔を上げさせられた僕を覗き込む、黒い瞳。

 長い睫毛、大きな目、綺麗に濁った瞳孔。

 アゲハは、涙を流しながら愉しんでいた。

 頬を紅潮させて、愉悦に染まった表情で、嘯く。



「好きです。好き、好きです。ずっと前から、あなたと出会った日から。幸せにします。しますからっ! しますからっ!!」



 ――私と、結婚してください。



 そして僕のファーストキスは血と涙の味を伴って、奪われた。

 なんの脈絡もなく放たれた告白は、呪詛めいた甘い言葉。

 押し付けられた女のコの感触は酷く柔らかくて、官能的な香気に脳が痺れて――



 ぼんやりとした意識の最中、アゲハだけが、世界の中心だった。

 






 ――ふと我にかえって、自分がいま教室で授業を受けていることを不思議におもった。



 ここ数時間の記憶が曖昧だ。よくのうのうと学校に来られたものだ、と僕のメンタルの強さに恐れ入る。



 授業中だというのにクラスメイトは僕のことを奇異な視線で伺い、ヒソヒソと何事か囁いていた。


 それも当然のことであって、僕もある程度は予想していた展開なのだけれど。



「………」



 やはり、実際そうなると居心地は最悪だ。

 当然の結果というか報いというか……。

 あるがままを受け入れるしかないと完全に諦めるほかない。

 すべての結果は自分の行いによるもの。

 因果応報、自己責任。



 なんて、重い言葉だろう。



「おはよ、玖楽くうらクン。きょうは来てくれたんだね。嬉しいなぁ。隣が空席だと寂しいもん」



 昼休みに突入した頃、通院で遅れてやってきた丹代にしろなあささんが、普段とかわらない態度で挨拶をしてくれた。


 不覚にも涙目になってしまった僕は、彼女を抱きしめてトリプルアクセルを踏む妄想をしながら挨拶を返す。



「お、おはよう丹代さん。きょ、きょうも笑顔がすてきだね、かわいいよ」


「……うん? う、うん、ありがとね……? 何かあった?」


「ううん、なんでもないよ。大丈夫」


「そ、そう……?」



 首筋に垂れた髪を指先でくるくる回しながら、困惑顔の丹代さんは尖った八重歯をみせた。

 変なテンションで柄にもない言葉を並べてしまったことに多少どころか死に戻りしたいレベルで後悔した僕は、丹代さんから時計に目線を逸らした。


 

 午後十二時三十分。五時限目が始まるまで、まだ三十分もある。



「ところで玖楽クン。ずっと気になってたんだけど、どうしたの、その目……? なんだっけ、厨二病ってやつ?」


「あ、あぁ……違うよこれは。……ってヤツかな? 朝起きたら腫れてて」


「そっかぁ、それって痛いの?」


「ううん、そんなに……」



 左目を覆う眼帯に触れながら、丹代さんの問いにやや不自然になりながらもそう返した。



「そうなんだ……へぇ」



 意味深長に首を傾けた彼女の目がなぜだろう、寒気がするような桃色だった。



「そっかそっか。じゃあ聞かせてくれるかな、昨日休んだ理由。。まだかなぁ、まだかなぁって玖楽クンが這入はいってくるのを窓から見てたのに」


「え……あ、いや――」




 視られて、いた――?

でも、どうやって?



 彼女と僕は廊下側の席で、窓際から離れた位置にある。

 僕のとてつもなく要領が悪い頭では、丹代さんがどうやって窓から僕を見ていたのかがわからない。


 

 返答に戸惑っていると、丹代さんは「ごめんごめん」と謝った。



「困らせるつもりはなかったんだ、ごめん。ただ、あのことがあったからさ、心配で」


「………」


「その目、本当に大丈夫なの?」



 再度、確認するように言って。

 僕は、またぎこちなく笑った。







「あぁっ!? 跡ついちゃったね、ごめんなさい、大丈夫? 痛くない? こういう時は冷やすんだよね、えっと氷借りるね!」



 冷たいフローリングにひっそりと体温を奪われていく感覚に浸りながら、ぼんやりと映る見慣れた天井に右手を掲げた。



 二の腕にいくつか、獰猛な動物に噛まれたかのような跡を見つけた。

 おかしいな、僕の家はペット禁止なのに。ははっ。



「ちょっと頭あげるよ。冷たいけど我慢してね」



 腫れ物を扱うように僕の頭を太ももに乗っけたアゲハは、先ほどと打って変わって、温和な表情で僕の左目に氷を押し当てた。

 冷たい。ヒンヤリとしてて、汗ばんだ体には気持ちいい。



「ごめんなさい、本当にごめんなさい。私、本当はこんなこと……あぁもう、どうしてこんなことにッ!!」



 前髪を掻きむしって癇癪を起こすアゲハ。

 ボロボロ落ちてくる涙が目薬よろしく僕の瞳にヒットした。

 痛い。

 けど躱す気力なんてとうに尽きていて。

 僕はただ、目薬と氷と女のコの太ももに体を委ねた。



「ごめんなさい。れん、ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」



 延々と続く謝罪フェス。

 ほっといたらいつまでも呟いていそうなので、仕方がなく彼女を許すことにした。



 これ以上、何をされるのかわからないし。

 一人に、なりたかったし。

 だから、仕方なく。

 僕は、彼女を許すのだ。



「許すから。許すから、その代わりに……もう、こんなことはやめて」


「……れんは優しいね。そういうところ、とても好き……」



 頰を紅潮させて、気恥ずかしそうに僕を見つめるアゲハ。

 そこに獰猛な肉食獣の影は見えなかった。

 年頃の、恋する女の子のような顔。



「……そっか」



 氷袋を自分で押し当てながら起き上がる。

 名残惜しそうな顔をするアゲハに、僕は淡々と言った。



「きょうはもう帰って。なんだか、疲れたから」


「うん。わかった。きょうは帰るね。おやすみ、れん」



 一方的でいて貪るような口づけを最後に、アゲハは消えていった。

 残された僕は、しばらくの間動けずに、暗闇に呑まれた玄関をジッと見つめていた。



 ドアノブがまわる気配は、もうない。


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