03‥‥僕と**。 2/2
どれだけ走っただろうか。
無我夢中に、取り乱しながら。
振り返ると、すぐ後ろからあの女が追っかけて来ていそうで、一度も周囲を確認することなく必死になって走った。
ようやく余裕を取り戻した頃、学校の校門が目に入った。
夕焼けが消え、藍色の帳が空を覆うなか、僕はゆっくりと呼吸を落ち着かせながら走るスピードを落としす。
ゆき先輩と過ごした喫茶店を通り過ぎ、迷路のような路地裏を抜け、気が付けば住宅街を彷徨っていた。
どこか、休める場所が欲しい。
家には帰れないから。
あの女が、居なくなるまでどこかに隠れていないと。
倒れそうになる体に鞭打って、僕はようやく見つけた公園の、トンネル状になっている遊具の中に隠れることにした。
ギシギシと、今にも踏み抜いてしまいそうな階段を数段上がり、トンネルの中に入ってうずくまる。
ここならば、万が一にあの女がここを通ったとしても見つからないだろう。
「はぁ……っ、はぁ……はぁ」
自分の荒い息が、いやに大きく感じる。
この息を辿って、もしかしたらここに隠れていることがバレるかもしれない。
頭を抱えて膝の中に埋め込み、必死に息を殺す。
『どうしてって、れん。彼女が彼氏の家に来ちゃイケナイ理由なんてあるの? あ、でも、そういえば、私初めてだもんね。れんの家に上がるの。初めての、お家デート……えへへ』
ふわっと浮いた
左の目元に浮いたほくろ。
着崩した星鳴高校の制服。
一向上を表す赤色のネクタイ。
ベッド。
『パパ活、だっけ? そんなことしてお金を稼いだらダメだよ。私も悲しいし? そもそも、前提としてキミは男のコ、でしょ?』
僕の部屋。
充満する、甘ったるい香水。
あげは――アゲハ、アゲハ?
瞼の裏に焼き付いて離れない女の名前に、なにか引っかかるものを感じた。
昔、聴いたことが……ある?
それとも。
記憶の糸を辿ってみても、思い返されるのは我が物顔で自室に居座る女の姿と、冷めた
「おまえは……誰なんだよ」
雨が、降ってきた。
傘は持ってきていないから、帰りはずぶ濡れだ。
きょうの夕食はなんだろう。
あしたは学校に行けるかな。
――ゆき先輩には、会えるだろうか。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した僕は、気を紛らわせるためにスマホを起動した。
暗闇の中に灯るブルーライト。
時刻は十九時時十分。
水面から浮かび上がってくるように、新着メッセージが画面を埋め尽くした。
「ひっ……!」
不在着信が二百八十件――全て、知らない番号からだった。
嫌な予感がする。
もしかしたら、あの女が?
そのとき、手の中でスマホが振動した。
手の平で暴れるスマホのディスプレイには、二百八十一件目になる着信がきていた。
スマホをスリープ状態にして、祈るように目を閉じる。全身をバイブのように震わせて、着信が切れるのを待った。
だれか。
だれでもいい。
だれか、僕を助けて。
『名字は、小さいうさぎのお姫様って書いて
僕の目を覗き込む眠たそうな瞳が、輪郭が、瞼の裏でうっすらと微笑んだ。
気がつくと着信は止まっていた。
トンネルを叩く雨水だけがこの世界を支配している――そう錯覚させるほどに、静かだった。
雨音しか聞こえない。
プラスチック製の四角に切り取られたちいさな窓からは、月の光が闇を払拭するように差し込んでいた。
あの女はもう、帰っただろうか。
それとも、まだ僕の部屋に居るのだろうか。
そもそも、あの女は一体誰で、どうして僕を知っているのだろうか?
いや――僕を知らない人間は、知らない人の方がきっと少ないはず。
僕が有名人だとか、そんなポジティブな理由ではなくて、あの事件のせいで。
ゆき先輩はサボりの常習犯と自称していたから、やはり当時もサボっていたのだろう。
それが、何よりも救いだった。
あの先輩なら、何事にも無頓着そうなゆき先輩なら、きっと……僕のことを知っても受け入れてくれる……だろうか?
わからない。けど、今は、無性に彼女に会いたかった。
連絡したら、助けを乞うたら、先輩は僕を助けてくれるだろうか。
連絡先から彼女の名前を見つけ出して、いざメールを送ろうとしたその瞬間。
ふと、光が消えた。
「……え?」
窓から差し込んでいた月の光が、パッと消えた。
雲に隠れたのだろうか?
一気に周囲が暗くなったことで、不安に駆られる。
大丈夫、すぐにまた明るくなる。
メールを打つことをやめ、膝に顔を埋めて瞼を閉じた。
暗闇の世界に響き渡る雨水。
トンネルを叩きつける雨が、少々強くなったような気がする――――あ、……雨?
「どうして、雨が降ってるのに月の光が……」
呟いて――得体の知れない何かに全身を舐られたような恐怖に陥る。
雨なのに、こんなに強い雨が降っているのに、どうして月が出てるんだよ。
瞬間、思い出したように月の光が窓から差し込んだ。
雲が晴れたんじゃない。
雲が晴れたんじゃなかった。
あれは、あの光は――
「懐中……電灯……?」
口の中の水分が無くなり、喉が異常に乾く。
もしかして――いやきっと違う。
近所の子供達が懐中電灯を持って遊んでいるだけだ。
――こんな……雨の日に?
――窓を、まるで集中砲火するかのように、ただ一点だけを?
どんな遊びだよ。
ここに住み着いたホームレスへの嫌がらせみたいじゃないか。
諸々と出てくる否定の言葉の中から、必死に都合のいい答えを探す。
そして、最悪の答えを悟ってしまった時。
スマホが、揺れた。
メールが一件。
宛名不明のメールが一件、届いた。
「右……窓……?」
漢字が二文字。
『右』の下に『窓』とだけ書かれた空白の多いメール。
右を向いてみると、そこには四角いプラスチック窓が一つ。
「ぅっ……」
気持ち悪さに口許を抑えた。
鼻息が荒い。
見てはいけない――そう本能が警告しているのに、僕の体はそこへ向かって四つん這いに進んでいく。
窓を射抜く光が、点滅を繰り返す。まるでモールス信号のように。ここを覗けと。
恐怖……というよりかは、もはや諦めに近い感覚で、僕はそっと窓を覗き込んだ――刹那。
ブー、ブー、と手元のスマホが震えた。
窓の下。
スマホを耳元に当て、懐中電灯を点灯させながらにっこりと不気味に微笑むアゲハが、そこにいた。
咥えていた棒付きキャンディを噛み砕き、懐中電灯をその場に落としたアゲハは、雨に濡れて冷たくなった右腕の人差し指を僕に突きつけると、言った。
「――みぃぃぃつぅぅけたぁっ、れ~ん♡」
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