第2話

「――ってことがあって、別れたわけだ」


 バイトの休憩時間、俺はユイカについ先日の――生々しい浮気の現場を見てしまった話をした。

 ユイカは俺より二個下で、大学一年生だ。通っている大学は俺と同じところで、学部は文学部らしい。文学部というと文学少女然とした大人しい子がたくさんいるイメージだが、それはあくまでイメージ。彼女は日によく焼け浅黒くて、活動的だ。体育学部にいそうな感じ。まあ、それは俺も似たような感じか……。


「ほへえー」


 と、ユイカは何とも間の抜けた声を出した。


「先輩、恋人寝取られたんですかー。それはそれは……」


 にやあ、とユイカはチェシャ猫みたいな笑みを浮かべた。

 しかし、そのちょっと馬鹿にしたような笑みが、不思議と不快ではない。


「――大変でしたねえ」

「ああ、まったく大変だよ」


 俺はため息をついた。ここ最近、ため息をつく機会が増えているように感じる。感じているのだから、実際に増えているのだろう。

 ため息をつくたびに、自分が不幸になっているように感じる。幸せがどこかへ逃げ去っていくような気がする。ため息をつかないようにしようかな、と考えるが、気がつけば『ふう』とか『はあ』とか吐いているのだ。もはや、癖になりつつあるのではないか、とすら感じる。


「精神的疲労がとんでもない」

「だから、最近元気なかったんですね」

「そうか。そう見える?」

「見えますよ」


 ユイカの目にはそう見えるようだ。主観的じゃない、客観的視点。彼女がそう言うんなら、きっと俺はかなり元気がないんだろうな。


「自分で思っているよりもさらにへこんでるんだな、俺」


 ユイカはコンビニで買ったおにぎりをむしゃむしゃと食べながら、


「――ってことはですよ、先輩は今、フリーなわけですね?」


 と、リスみたいに膨らんだ頬で言った。


「フリーって、彼女がいないって意味合いか?」

「イエス」


 ユイカは大きく頷いた。


「まあ、そうだな」

「ふうん。彼女いないんだー」


 ユイカは呟くと、おにぎりをもぐもぐと食べる。

 ユイカは高校まで女子校に通っていたらしい。女子しかいない環境というのは、想像するだに恐ろしい。いかにもドロドロしていそうだ(偏見だろうか?)。だが、男子しかいない男子校というのも、いろいろな意味で混沌としてそうだ(やはり、偏見だろうか?)。

 ちなみに、俺は共学出身だ。男女比率もほとんど半々。


「そういえば、お前って彼氏とかいるのか?」

「あ、気になります?」


 ユイカはにやにやといやらしく笑う。


「私に彼氏いるか、すごーく気になっちゃいます?」


 すごーくってほどではないが、まあどちらかというと気になる。

 しかし、正直に『気になります』と答えるのも、なんだか癪だったので、


「いや、そこまでじゃない」


 と、俺は答えた。


「答えたくないなら、別に答えなくても構わないぞ」

「答えます答えます」


 ユイカは慌てて早口になった。

 んんっ、と妙になまめかしい咳払いをすると、背中に定規を入れたのかというくらい姿勢を正して、それから、俺を焦らしているのか言葉を口の中で溜めて、熟成させてからようやく言った。


「なんと…………いませんっ!」


 驚きの大発表、みたいな言い方だった。そこまで大した発表じゃない。


「ふうん」

「いません」

「そっか」

「ずっといません」

「へえ」

「……」


 俺のリアクションが思っていたよりもだいぶ薄かったからか、ユイカはけっこう露骨にがっかりした不満顔をしてみせた。

 俺は内心で苦笑しつつ、


「意外だなぁ!」


 と、オーバーリアクションで言ってみた。

 すると、ユイカはにやにやしながら、


「そうですかね?」

「お前、美人だし、言い寄ってくる男とか結構いるだろ?」

「いるかいないかで言うと、いますけど……」


 俺が『美人だ』と言ったからか、ユイカは口元を緩ませた。弛緩しきった顔つきである。表情がコロコロ変わるので面白い。


「つくらないのか、彼氏?」


 俺が尋ねると、豆鉄砲を食ったような顔をした。それから、表情を二転三転させて、最終的には苦虫を嚙み潰したような顔になった。


「好きな人がいるんです」

「へえ。誰なんだ?」


 しかし、ユイカは俺の質問には答えず、言葉を続ける。


「でも、その人には恋人がいて……」


 恋人がいて……なんだ?

 気になったのだが、しかしその後の言葉は紡がれなかった。

 食事を終えると、俺とユイカの休憩時間が終わった。今日は夜の8時までバイトがある。客が多く、それなりには忙しい。あの日とは大違いだ。


「先輩、今日は8時まででしたよね?」

「ああ、お前も?」

「はい。バイト終わったら、一緒に帰りませんか? 話したいことがあるんです」

「構わないが……」俺は言った。「話したいことって?」

「それは……」


 ユイカは言い淀む。口に手を当て、小悪魔的に微笑んだ。


「秘密です」

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