第25話 2008年8月16日 五家祭り4日目(3)
「最近山の方でも出るらしいぞ……」
「だったら向こうの廃屋にも何人か住み着いてる。食べ物を奪われた!怪我人が出た!」
「永久湖もそうだ。どうしてこう集まってくるんだ?俺たちの力ではどうしようもない」
湖に頭から突っ込んでいったはずなのに僕はまた別の光景を目の前にしていた。地面に足を付け人が住む里のようなところに立っている。村人が噂話をしているのが見えた。
僕は恐る恐る左腕を見下ろす。鱗は見当たらず、見慣れた人間の体だったので安堵した。
「おお!此方が
「都から妖怪退治を任された武家の方だ。五人も来てくだされば安心だ。助かった!」
「どうか村をお守りください」
村人が僕に気が付くと先ほどの侮蔑に満ちた瞳とは違い期待に満ちた瞳をこちらに向けてきた。掌を返したような態度の変わりように僕は戸惑ったが今の僕はどうやら竜人の青年ではなくご先祖様の火差義明に見えているらしい。
次に見えた光景はどこかの屋敷の一室だった。村人に慕われ羨望の目を向けられているご先祖様はさぞ毎日を楽しく過ごしたのだろうと思っていたのだが違ったらしい。僕の心はずっしりと重かった。
“最初は村を守るのだという使命に燃えた。蓋を開ければ都で虐げられたもののなれの果てではないか……。正しい行いだと思ってここまでやってきたがもう限界だ。弱き者をこれ以上貶めてどうする。
しかしこれは勅命だ。背くことは許されない。争いではなくどうにか収めることができないか……。”
驚くべきことに義明さんは妖怪退治に乗り気ではなかった。歴史書には僕を含めた五家の武勇伝が書き連ねてあったからてっきりご先祖様は喜んで妖怪退治に身を投じていたのかと思っていた。
だから僕も平成の世で妖怪退治をしていた時太刀で両断した妖怪に対して何の感情も抱かなかった。ご先祖様もこんな風に躊躇いなく退治していたんだろうなと思っていた。
歴史書から個人の感情が分かるはずがない。この時ご先祖様がどう思っていたかなんて記されていないからだ。五家の歴史書は五家の輝かしい功績を残すだけで感情や都合の悪い情報は全て省いて描かれている。
僕は正義に揺れ動く義明さんの心を知って後ろめたい気持ちになった。
妖怪の身になって初めて僕は他の人の立場に立って考えるということができるようになった。一方的に嫌悪され、社会から排除される悲しみと恐怖を身を持って体験してやっとだ。
痛みを知ることで人はやっと己の行為を顧みることができるのかもしれない。残念なことに僕は他人と同じ痛みを体験しなければそのことに気がつくことができなかった。
僕は他人の立場を体験しなければ気持ちを想像することができなかったけれど義明さんは違う。立場が違っても想像力を働かせることができる人だ。何だかそんな立派な人を目の前にすると自分の小ささが際立って虚しくなった。
再び場面は変わり、僕は夕暮れ時の永久湖の前に立っていた。
目の前には息を切らして太刀を構えた男の姿がある。さっきは義明さんの目線だったから分からなかったがこの人物は多分僕のご先祖様なのだろう。顔は兜をかぶっていてよく見えない。
“弱者を追い詰めるお前たちこそ化け物ではないか!どうして己と異なるというだけで排除する?”
竜人が義明さんに向かってそんなことを言った。この言葉に僕は胸が痛んだ。夢中で妖怪を切りつけていた僕こそ妖怪よりも化け物じみた何かになっていた。義明さんというより僕に向かって言っているようだ。
「そうだな。本当に申し訳ないことをしてきた……」
ご先祖様は開き直るどころか竜人に頭を下げた。こんなに腰が低い人だったのか……。まるで僕の父みたいだなんて思った。
「私ももう無駄な殺生はしたくない。提案があるんだが聞いてくれるか?」
僕は息を呑んだ。歴史書では竜人と義明さんは死闘を繰り広げるはずなのに全くそんな雰囲気がない。それどころか歴史書の記述にない展開が目の前で繰り広げられている。
「私に退治されたように見せかけてくれないか?そうすれば私からお前のことを湖の神として祭るよう村の者に説得しよう。そうすればお前はここで静かに暮らせるはずだ」
驚きの発言に僕、竜人は黙り込んだ。ということは……火差家に伝わる竜退治はでっち上げだったのか!確かにあんな太刀で巨大な竜を両断できるはずがないとは思っていたけど。
僕は失望するよりも安堵した。そうか……竜人は僕のご先祖様に助けられたのか。だからご先祖様は竜の首じゃなくて“
“どうして……。”
「居場所が欲しかったんだろう?」
ご先祖様の優しい声色に心が温まっていく。
考え方の違いで都を追われ、あらゆる村を渡り歩いたが余所者を受け入れてくれるような場所はどこにもなかったのだ。命からがらに辿り着いた呼子村でも石を投げられ「出ていけ」と言われる始末。
ずっと人を、社会を、世界を……何よりも無力な自分を憎んできた。
だけど自分の存在を認めてくれる誰かがいるのなら、ここに居場所があるのなら暴れて全て壊すのは止めてやってもいいかもしれない。
僕は視界が歪んでいることに気が付いた。何が起きたのか分からなくて目元を拭う。僕……というより竜が泣いているんだ。いや、僕も泣いていたのかもしれない。
尾っぽを切り落とされると今までの憎悪に溢れた感情が綺麗に消え去った。尾っぽを切り落とすのに使われたのが火差家の家宝の太刀だった。今まで刀身に何も描かれていなかったはずなのにいつの間にかお経のようなものが浮かび上がっている。
もしかして……これが五家の、火差家の力なのだろうか。遂に僕が一度も使うことのできなかった力だ。
思い返してみれば力呼びの儀で五家の力を降ろさなかった僕はずっと竜の力に守られていた。僕は瞳を閉じて竜に礼を言う。
竜は天高く飛翔すると永久湖に潜り込んでいく。不思議なことにしぶきは1つも上がらなかった。
僕は竜の姿を見て驚いた。あれ?竜から離れてる!幽体離脱のような現象が起きたらしい。
見慣れた僕の体がそこにあった。手を動かして確かに自分の精神が自分の体に戻ってきたのを感じ取る。
わたわたとしている僕に向かって義明さんが笑いながら言った。
「湖の水を飲みなさい。そうすれば力は返されるから」
「僕のことが……見えてる」
思いがけずご先祖様と言葉を交わしてしまった僕は目を落とさんばかりに開けた。僕は魂だけ漂っているわけではなくきちんとここに存在しているみたいだ。
僕はゆっくり義明さんに向かって頭を下げると振り返って永久湖の水を手で掬って飲んだ。今までの有り余るように湧きがってきていた力が抜けていくように感じる。簡単に言ってしまえば神奈川にいた時の僕に戻ったのだ。
竜の力を失ったのを自覚すると同時に背後から僕の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「
振り返るとそこに義明さんはいなかった。代わりに目の前にいたのは刀を振り下ろしている朔君だった。
「え……?何だこれ」
僕が目の前にしている空間がまるでカッターで紙を切ったかのように切り開かれていた。朔君の背後にはまた別の空間が広がっているように見える。トリックアートでも目の当たりにしているかのような光景に僕は目を瞬かせた。
数秒後これが
僕が竜人として、義明さんとして存在した空間は
朔君の前に降り立つと夕暮れから夜へと姿を変えた永久湖が現れた。虫の声が聞こえ、
「どうして……皆ここに?」
僕は五家の子供達が永久湖に集合していることに疑問を抱いた。僕は永久湖の怒りを買って竜をこの身に宿し五家の敵となってしまったのに。何より4人の姿を見てほっとしている自分がいる。
「水嵩さんから聞いたんだ。義人がどうして湖の水を飲んだのかっていうの!」
朔君が興奮気味に僕の元に駆け寄って来た言った。僕はそれを聞いて首を傾げた。そういえば僕は何故あの時湖の水を飲むなんて奇行に走ったんだろう……。それだけが思い出せずにいた。
「それを聞いて絶対義人は僕らの味方だと思って……。竜人伝説を聞いて怖がっていた水嵩さんを勇気づける為だったんでしょう?村に悪さをしようとして竜人になったんじゃない」
「……ああ。そうだった……かも」
朔君の言葉を聞いて僕の微かな記憶が蘇る。水嵩さんが湖に近づかないのを見て問いかけた時に「その湖の水は人を悪い竜になるの」と聞いた。当時の僕は水嵩さんを励ますために湖の水を飲んで「ほら。何ともないでしょ」としてみせたかったのだ。
水を飲んだことを知った父は僕をすぐに車に乗せると呼子村から離れた。
父は永久湖の水の謂れを知っていて暫く僕を呼子村から遠ざけていたのかもしれない。
「それに邪竜だって今は村で祭られてる。退治するべき相手じゃないって皆で考えてここに来たんだ!」
朔君はそう言うと笑顔を浮かべた。その妖怪を思いやるような優しい言葉と表情は義明さんを思い出す。
おかしなことに妖怪退治を任された五家の武士達は妖怪のことを一番に思いやっていた。それはきっと今も昔も変わらないのだと思うと心が温かなる。
「この様子だともう竜はいなくなったのかな?義人君がどうにかしてくれた感じ?さっきまで信じらんないくらい妖怪がいたのに……」
木楽さんが辺りを見渡す。
「うん。竜は永久湖に帰ったよ」
僕は顔を俯かせて言った。五家の子供達が安堵している間もなく湖の側にある神社に明かりが灯る。
「そこに誰かいるのか?」
大人の男性の声がして僕らは黙って視線を合わせる。僕らが考えていることは同じ。ここからとっとと離れる!夕方の見回りは許されていたけど武器を持っていることを知られたら怒られてしまう。
五家の子供達は一斉に湖の入り口に向かって駆け出した。
畦道を僕たちは笑顔を浮かべながら走る。朔君は今までに見たことないくらい顔をくしゃくしゃにさせて、水嵩さんははにかむように、木楽さんは大口を開けて、錬は仕方ないなというように。
サンダルに砂が入るのも構わずに、後ろから呼び止める声を振り切って夜の村を走るのは楽しかった。久しぶりに心の底からおかしいと思って大笑いしている。
僕の中に竜はもういないから前のように速く走れない。4人の背中を追うようにして息を切らして走った。
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