琴瑟相和

 ふと琴の音が聞こえたような気がして、俺はぼんやりと目を開けた。まだ夜中らしく、格子の間から差し込む月明りだけが、部屋に薄暗い光を投げかけている。俺は腕を伸ばすと、楚碧が寝ているはずの隣をまさぐった。ところが腕は空をかき、手のひらで敷布を無意味に撫でまわすだけに終わってしまう。俺は完全に目が覚めて、慌てて起き上がってあたりを見回した。

 この時になって初めて、琴の音がはっきり俺の耳に届いた。聞く者の心を安らげるような、静かで落ち着いた音色だ——そして俺の知っている中では、この音を出せる者は一人だけだ。俺は靴を履くと、上着を羽織って部屋をあとにした。階段を降り、静まり返った台所を抜けて裏口から外に出ると案の定、石の卓に座った楚碧が一人静かに琴を弾いていた。白い寝巻姿のまま軽く目を閉じ、月明りの下で独り琴を弾く楚碧はどこか浮世離れした空気をまとっている。俺は少しの間、戸口に佇んでその様子をぼうっと見つめていた。

「……起こしたかい?」

 琴を弾く手を止めて楚碧が尋ねた。俺は我に返って、月明りの中に足を踏み出した。

「いや。目が覚めたら、お前の琴が聞こえてきた」

 俺が答えると、楚碧は「そう」とだけ返して目を開けた。月に照らされて、右目の白い傷跡がいつもよりくっきり見える。

「そういうお前は、眠れないのか?」

 俺が聞くと、楚碧はふっと笑みをもらした。

「うん。太極道門のことを考えると、どうにも目が冴えてね」

 普段のあっけらかんとした態度からは想像もできないような思いつめた顔を、俺は黙って見ていた。ぽつり、ぽつりと呟く楚碧は、ひどく哀愁を漂わせている。

「黙玉真人には、小さい頃から色々なことを教えていただいた。伯父上もそうだったけど、武林の中核たるにふさわしい方だ。それなのに、最期は邪道の者の手にかかって亡くなってしまわれるなんて」

 楚碧は琴の弦を撫でた。キュ、と軽い音がするのに合わせてため息をつく。

「私ができることと言えば、真人のために弔いの曲を奏でることくらいだ。仇を討とうにも、それによってまた誰かが死んでしまうだろう。紅星姉さまかもしれないし、任先生かもしれないし、お前かもしれない……なあ、燕山。もしもお前が伯父上のように私をかばって死んでしまったら、私はどうすればいい?」

 思いがけない問いに、俺は言葉に詰まった。言いよどむ俺の顔を楚碧がすがるような目で見つめてくる。俺は口をゆっくり開くと、

「お前が生きていることが、俺にとっては一番大切だ」

 と喉にひっかかる声で言った。お前のためなら命も惜しくない、そう言いたいところだったが、楚碧の求める答えはそれではない。

「だが、もしお前がそれを望まないのなら、俺はお前に従おう。お前が嫌だと言うのなら、俺は命までは投げ出さないでおくよ」

「大げさだな、燕山は。お前が命をかけずとも、私だって自分の身は自分で守れるさ」

 困ったように笑う楚碧に、俺は静かに首を横に振った。

「いいや、お前は俺が守る。それが師父や大師姐が俺に与えた使命だからな」

「じゃあ燕山は、紅星姉さまや伯父上が望むから私のそばにいてくれるのかい?」

 楚碧は嫌味っぽく言い返したが、どこか嬉しそうな、安心したような響きが見え隠れしている。俺は琴の上に置かれた手に自分の手を重ねて、楚碧の目をまっすぐに見据えた。

「いいや。それは二人の意向と俺の意志が一致したに過ぎない。お前が宗主の血縁であることもお前の武林での立ち位置も関係ない、俺はただお前という人間に生きていてほしい。邪魔する奴は俺が容赦しない、それだけのことだ」

 楚碧の目が見開かれたと思うとすっと細められた。満面に湛えられた喜色に俺もほっと胸をなで下ろす。

「あはは、燕山らしいや。でも命は投げ出さないでくれよ、約束だぞ?」

 楚碧は笑いながら俺の手をどけると、また違う曲を弾き始めた。俺が楚碧に教えた、俺の故郷で若い娘がよく歌っていた恋歌だ——俺は知らず知らずのうちに指で卓を叩いて拍子をとり、低い声で歌詞を口ずさんでいた。飾り気のない、素朴で素直な歌だというのに、楚碧の手にかかると不思議と色気を帯びて聞こえる。ポロン、ポロンと気まぐれに付け加えられる音に笑いながら、俺たちはその恋歌を繰り返し歌った。来たるべき運命から目を逸らすように、全ての責任から逃れるように。やがて楚碧が手を止めると、琴をくるりと回して俺の方に向けた。

「燕山も何か弾いてよ」

 笑いながら言った楚碧を拒む理由はどこにもない。俺は弦に指を置いて少し考えると、楚碧がよく弾いている曲を弾き始めた。楚碧が嬉しそうに笑い声を上げ、俺も笑みを浮かべながら指を動かしていささか荒い音を紡いでいく。楚碧のような繊細で美しい音は出せないがそれはそれ、無骨な音色でも楚碧が楽しんでくれているということが嬉しくてたまらない——だが、幸せな時間はそう長くは続かない。あの赤い花火が空に上がったのはそんな時だった。



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