淵神無道

 俺たちは焼け焦げ、辛うじて「太」の字が読み取れる看板をまたいで中に入った。未だに白煙を上げている木や建物の横を通り過ぎてようやく目の前に現れたのは、かつて太極道門の中核をなしていた寺院の残骸だ——名門中の名門である太極道門が一夜にして焼け落ちたという事実を突きつけられるような、無情な光景だった。俺と楚碧は呆然と立ち尽くしたまま、瓦礫の山を見つめていた。すると、よく知った声が俺たちを呼ぶのが聞こえてきた。

「楚碧、燕山!」

 名前を呼ばれて振り向けば、清潔感のある白い着物を着て、やはり帯から太陽の玉佩を提げている男が手を振っている。現在の宗主の婿のじん故心こしんだ——どうやら彼は、他の門弟とともに救援に遣わされたらしかった。周囲をよく見ると、天道剣宗以外にも、様々な門派の者が集まってあちこちで作業している。

「任先生!どうしてここに?」

 楚碧が尋ねると、任故心は、額の汗を拭いて言った。

「夜明けごろに伝令の者が来てね、紅星の命令で、私と十数人とですぐさま日月逢港を発ったのだ。しかし、山のふもとからひどい有り様だったが、まさか本当にここが落ちたとは……いやはや、我々としても油断できない状況だ」

 任故心は険しい表情を浮かべてもう一度額の汗を拭いた。その言い方にひっかかるものがあって、俺も口を開いて尋ねた。

「油断できないとは?」

「ああ……というのも、首謀者があの林淵凝りんえんぎょうなのだ」

 林淵凝——その名を聞いた途端、俺たちはハッとして眉をひそめた。忘れもしないあの日、あの戦いで、師父の命を搾り取り、楚碧の目を傷つけた張本人、それが林淵凝だった。奴は邪道の一派、えんしん無道むどうを率いて、かつて武林の仲間から無辜の一般人まで多くの命を奪った極悪人だ。今でも人々は奴を恐れ、憎んでいる。江湖にその名、ひいては天下の支配を掲げた奴の覇道を中断させたのが俺たちの師父だ——あの日、長時間にわたる戦闘で体力も功力も底をつき、全身に傷を負った俺たちの目の前で、師父は天道剣宗の最高峰の奥義「十陽滅燼じゅうようめつじん」で自身の体ごと奴を燃やしたのだ。それ以来、奴と淵神無道は江湖から姿を消した。連中がどこで何をしているのか、そもそもまだ組織として残っているのか、誰も確かなことを知らないまま月日が流れたのだが、それが今になって活動を再開したということらしい。そこまで話すと、任故心はため息をついて頭を振った。

「実は、私たちを送り出す前にこうせいも全く同じことを言っていた。それに、奴の野望の邪魔になるのは我々正道の強力な使い手だ。事実、太極道門は掌門がやられた。あの当時も相当手こずらされたが、今回はさらに厳しい戦いになりそうだ」

「そんな……黙玉真人もくぎょくしんじんでも敵わなかったと?」

 信じられないといったふうな楚碧に、任故心は無言で頷いた。誰もが黙り込む中、周囲の物音がやけに大きく聞こえる。

 その後、俺たちは黙玉真人の亡骸に挨拶をして山を下りた。この状況では一刻も早く日月逢港じつげつほうこうに戻って、天道剣宗の戦力に加わると同時に情報を伝えた方がいいと思ったからだ。俺たちは任故心たちの乗ってきた馬を二頭借りると、日月逢港への道を急いだ。


***


 日月逢港は、大きな湖に隣接した水郷だ。昼に夜に湖面に写る空の美しさからその名がついたといわれているこの場所を攻めるには、正面きって湖から船で攻め込むか、背後の森から不意打ちを食らわせるかの二つに一つだ。ゆえに天道剣宗では、湖にも森にも人を遣わして、外からの襲撃に備えている。そして、太極道門のある道悟山から向かおうとすると陸路を使わざるを得ない——剣宗の者ならば誰もがそれを知っているので、当然警戒が強まるのも森の方だ。丸一日をかけて馬を駆っていた俺たちは、天道剣宗の勢力圏に入るなり木々の間に満ち満ちた殺気に足止めを食らうことになってしまった。皆の気が立っているのも仕方ない、なにしろ林淵凝は武林全体のなのだ。こと天道剣宗においては、前宗主を殺された恨みを誰もが抱えている。護衛とともに森を抜け、裏門を通って久しぶりに日月逢港の地を踏んだ頃には、太陽が西の空に沈もうとしていた。

 俺たちを迎えた現宗主のちょうこうせい——俺はもっぱら大師姐と呼んでいる——は、疲れた顔はしていたが久しぶりの従兄弟たちの帰還を喜んでくれたようだった。大師姐は、挨拶を終えた途端にぐううー、と情けない音を立てた俺の腹に笑うと、

静光楼せいこうろうはそのままにしてあるわ。すぐ人をやって食事を作らせるから……話はそれからよ。今夜はゆっくり休めることを期待しましょう」

 と言って通りすがりの少年に使い走りを命じた。その姿の凛としていること、二十歳と少しという若さで宗主の座を継いだ彼女の覚悟はやはり伊達ではない。俺たちは、旅のことをあれこれ話しながら敷地の奥へと歩いていった。悪い話をする前に楽しいことをひとしきり話してしまおうという気分だったのだ。やがて俺たちの目の前に、二階建ての建物が見えてきた。木々に囲まれた空き地にひっそりとたたずむこの建物、静光楼は、俺たちが旅に出る前からずっとこの場所で、一人静かに修行を積む者に寄り添ってきた。今は楚碧が使っている——林淵凝との一戦で眼鏡を割られ、破片が右の目尻に刺さったせいで、楚碧の目は余計に悪くなってしまった。剣士としては戦力外もいいところだ。だが、楚碧も根っからの武芸者だ。視覚に頼れないならばと、前宗主が亡くなってから静光楼にこもった楚碧は、今では視覚以外の感覚でもって敵と渡り合う術を身に着けていた。普段は一人でひたすらに内功を鍛えて感覚を磨いていたが、週に幾度かの実戦の相手はもちろん俺だ。静光楼に入れるのは、基本的には修行をする本人とその伴侶のみ、あとは宗主に特別に許可された者だけだ。俺は規則を逆手に取った楚碧の言い分——あいつめ、大師姐と長老たちの目の前で、夫婦の契りは済ませたのだからと言い放ちやがった!——によって「特別に」出入りを許されていた。そして剣を交えたあとは決まって閨をともにしていた。なんだかんだ言って、俺も貴人と下僕が密かに逢瀬を重ねるような関係を楽しんでいたのだ。それに、目に見える型に惑わされることのない楚碧は、俺の鍛練の相手としても最高の使い手だった。


 俺たちが着くころには静光楼の扉はすでに開けられていて、人の気配がしていた。備え付けの小さな台所からはいい匂いが漂い、卓の上には茶と干し果物が三人分用意してある。それを見た途端、俺の腹がまた鳴った。

「そういえば、朝から何も食べていなかったね」

 楚碧が思い出したように言う。からかうような目つきに俺はますます居心地が悪くなり、

「……なんでお前は平気なんだよ」

 と、ぼそりと言い返した。すると楚碧がさらに反論してくる。

「内功を鍛えれば、食事をせずとも体内に力を巡回させられるんだよ。そうだろう?」

「だが、食わないと体ができないだろう。内功も大事だが、外功も鍛えねば剣を振るう素の体力がつかんだろうに」

 俺の答えに、楚碧はふふふと笑った。

「そうだね。まあ、私としても、お前には逞しくいてほしいよ」

 後ろからぴたりと貼りついてきた楚碧の手が俺の腰を抱く。俺はハア、とため息をついて額を押さえた。

「やめろ。大師姐の前だぞ」

 ええー、と口を尖らせる楚碧に大師姐が苦笑する。俺は楚碧の拘束から抜け出すと、

「あとで好きなようにさせてやるが、今は駄目だ。」

 と言ってこげ茶色の瞳を睨みつけた。𠮟られても反省の色を見せない、小さな悪戯っ子のような目は今も昔も変わらない。すると大師姐が、

「そこまで、料理ができたわよ。全く、いくつになっても張り合うんだから」

 と言って俺たちの間に割って入った。

 食事をしながら、俺たちは太極道門でのことと任故心との話の内容を全て語って聞かせた。大師姐が言うには、伝令の者が襲撃の知らせを持ってやってきた時から、万が一に備えて門弟を総動員しているらしい。そう考えること自体はなんら不思議ではなかったが、どうやら大師姐は天道剣宗が必ず襲撃を受けると思っているらしかった。

「考えてもみなさいよ、今の天道剣宗の中心は私たち、林淵凝からしてみれば己の名声に泥を塗りたくった男の弟子なのよ?奴が私たちの仇であるように、奴も私たちを倒すべき大敵だと思っているはずよ。それに私たちは父上ほど熟練しているわけではない。私たちを討てば屈辱を晴らせて、おまけに天道剣宗は形無しになるわ……そうなったら奴は向かうところ敵なしよ」

 大師姐はそう言うとため息をついた。彼女からすれば、父親の喪が明けて宗主の座を継いでからずっと、林淵凝か淵神無道の連中が復讐に来ることを常に警戒していたのだろう。その時が今訪れたというだけで、彼女にはやるべきことは見えているのだ——もちろん俺たちにも見えている。来たるべき襲撃に備え、天道剣宗を守り通すこと、それが張宗主を師と仰いだ俺たちの務めだ。

「……でも、奴が攻めてきたら、門弟の多くは命を落とすでしょうね」

 楚碧がぽつりと呟いた。

「技を使える者さえいれば、門派として滅びてしまうということはないでしょう。私たち三人か任先生、弟子を取っている者、座学を受け持っている者、このあたりが生き残れば立て直しはできます。が、手勢を削がれるということは、奴のこれからの悪事を止められる者が減ってしまうということになる。太極道門がやられた今、我々まで同じ道を歩むと武林の力の均衡は大きく狂ってしまう」

「そうなれば奴の思うつぼ、今度こそ誰にも止められずに覇業を成し遂げられるってわけか」

 俺は静かに頷いた。達人中の達人だった太極道門の長でも奴には敵わなかったのだ。俺たちで少なくとも相打ちに持ち込まないと、今度こそ真の暗黒時代が訪れてしまう。俺たちは黙りこくったまま茶を飲んだ。そもそも俺たちのような、まだ三十にも満たない若造が名門一派の存亡を背負うなど、本来であれば起こっていないはずなのだ——だが、俺たちはこの責任から逃げ出すことはできない。命を投げうってでも天道剣宗を守らねばならない。重苦しい空気が食卓に垂れこめる中、パン、と大師姐が手を叩いた。

「今日はこれぐらいにしましょう。奴が次に狙うのは私たちと決まったわけでもないし、その時はその時よ。悩んだところで奴は勝手に手を引いてはくれないわ。食器は私が片付けておくから、あなたたちは休んできなさい」

 疲れた顔に無理に貼り付けられた笑みを見て、俺たちは夜の挨拶だけして二階に上がった。静寂の中、歩けば軽く音を立てる廊下、白で統一された壁、そして年季の入った木の扉——その向こうでは、必要最低限の調度だけが揃えられた素朴な部屋が、俺たちの帰りを待っていた。

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