悪鬼再来
「
すぐ近くからのささやきにまぶたを無理やりこじ開けると、目の前にあいつの顔がどんと居座っていた。
「起きた?燕山」
「……
再び閉じたまぶたの上に腕を乗せると、楚碧は何の迷いもなく俺の指をいじってきた。外の薄暗さを見るに、まだ太陽も昇っていない時間であることは明らかだ。まだまだ惰眠をむさぼっていたいところだが、そんな俺とは反対に、楚碧はすっかり目が覚めているらしい。
「ねえ、起きてよ。今日の旅が始まる前に、お前をたっぷり見ておきたいんだ」
クスクスと悪戯っぽく笑う楚碧。腕の下からちらりと視線を向けてやると、やつの無邪気な笑顔が依然として俺の視界を埋めている。楚碧は器用に俺の目線をとらえると、顔にかぶさった腕をどかして鼻と鼻が触れそうなほどに顔を近づけてきた。
あの決勝戦での対戦相手が武林の名門・
「お前、その目のやつは何なんだ?そんなものつけててよく戦えるよな」
思い返せば、何と失礼な一言だったことか!だが、楚碧はそんなことは気にするふうもなく、その飾りを外して俺に見せてくれたのだ。
「これはね、眼鏡っていうんだ。僕目が悪くて、これがないと周りが見えないんだ」
「でも、お前、俺のこと見えてるじゃないか」
「そうなんだけど、いろんなものがぼやけて見えるんだ。壁の書画とか、暦とか、人の顔とかものの形とか、近くに寄らないとちゃんと見えなくてさ」
楚碧はそこで言葉を切ると、ずいと俺に接近してきた。その近いこと、鼻と鼻が今にもくっつきそうだ。面食らった俺は足から根が生えたように動けず、顔が赤くなっていくのを感じながら楚碧の顔——そして悪戯っぽく光るこげ茶色の瞳を凝視することしかできなかった。
「これでやっと、君がよく見えるよ。燕山」
おそらくあの時、真っ赤になって自分を見つめていた俺が、こいつにはどうしようもなく可笑しかったのだろう。それ以来、事あるごとに至近距離から俺の顔を覗き込むようになった楚碧は、今では契りを交わしたのを良いことに朝っぱらから俺の顔を占領している。
俺は半分寝ている頭で、視界を埋める楚碧の目と、右目の端にある白っぽい傷跡をぼんやりと見ていた。やつの細い指が俺の額を撫で、寝ぐせのついた髪をかき上げる。
「起きてよ、燕山。それとも私が起こそうか?」
子どものように無邪気な笑顔が、突如として大人のそれに変貌する。そのまま覆いかぶさってきた楚碧を拒むことを俺はできない。諦めて眠気を振り払い、口づけを受け入れると、楚碧の体重が全身にのしかかってきた。背中に食い込む地面の固さに、否応なしに意識がはっきりする。
「おい、まさか今から——」
「まさか。でも日が昇るまで時間もあるし、どうしてもって言うのなら付き合うけど」
「ハッ、付き合ってほしいのはお前だろう?」
「さあ。それはどうだか」
俺はもう一度笑うと、楚碧と唇を合わせた。今度は自分から、甘い自堕落へと誘い込むように楚碧の舌を迎え入れる。俺の頬に添えられていた手が首筋を伝い、そのまま少しはだけた着物の中へと滑っていく。
楚碧が江湖を見て回りたいと申し出たのは、もしかしてこのためなのではないだろうかと思うことが時々あった。たしかに、宿屋や森の中の洞窟では俺たちの関係をとやかく言える者はいない——入門して十年、楚碧は同世代の門弟でも師兄弟でもない、もっと特別な存在になっていた。だが、武林という枠組みにおいては、名門の宗主の血筋である楚碧が一介の門弟と衆道趣味にふけっているというのは聞こえが悪いらしい。そこで、目の悪い楚碧が江湖を渡り歩くには誰かがそばについていなければならないという理由のもと、俺は現任宗主の従兄弟の従者という「立場」を新たに与えられた。楚碧の旅を助けるという建前のもと、俺はこいつと二人きりで過ごす時間をもらえたのだ。帯から吊るされた金糸の編みこまれた
俺たちは身だしなみを整え、焚火の跡を片付けると洞窟を出た。いつの間にか太陽は顔を出していて、木々の間からすがすがしい朝の光を投げかけている。俺たちは森の小道を歩きながら、これからの旅路のことを話した。この森を抜ければ天道剣宗と同盟関係にある
町に人気はなく、狼藉のあとが一面に広がっている。そこかしこで崩れている屋台の周囲には菓子やら果物、小物の類が散乱し、家屋の戸は破られ、木片や破れた布や壊れた桶が転がっている。俺と楚碧はあたりを見回して、その惨状に眉をひそめた。
「これはひどいな……」
楚碧が絶句する。俺は楚碧がものにつまづかないようしっかりと引き寄せると、近くの家の戸をそっと押した。何の抵抗もなく開いた扉の向こうはやはり荒らされていて、散らかり放題の室内には人っ子一人いる気配がない。
「この家の者は逃げたらしいぞ。どこぞの外道が徒党を組んで町を襲ったのか?」
俺たちは次に、他より被害の少なそうな家の前に立った。壁は傷だらけだが、戸も窓も無事で、中からしっかりと鍵がかけられている。俺は試しに戸を叩いてみた。少し乱暴なくらいにドンドンと音を立てると、中から何かの倒れる音と慌てたような声がした。
「失礼、驚かせるつもりはなかった。お尋ねしたいことがあるのだが、出てきてはくれまいか?」
俺が大声で呼ばわると、少し間があったのちに閂が外れる音がした。ほんの少しだけ開かれた隙間から恐る恐る顔を出したのは、小柄で、怯えてさえいなければ人の良さそうな顔立ちの初老の男だ。
「失礼、旦那、私たちは旅の途中で立ち寄ったのですが、この町に何があったのですか?」
俺の背後から楚碧が尋ねる。男は俺たちをじろじろ眺めまわしていたが、腰の下のあたりで揺れる太陽を模した玉佩に気が付くとハッと目を丸くした。
「もしかして、天道剣宗の方ですか!」
その一言からは、心からの安堵がにじみ出ていた。楚碧は一瞬首をかしげると、
「いかにも、我々は天道剣宗の者です。私は楚碧、こっちは同門の燕山と申します。」
と答えた。男は再び安堵のため息をつくと、扉を大きく開けて深々と礼をした。
「ああ、助かった!いい時においでなさいました、あんたがたはまさしく救世主だ!昨晩は悪夢のような晩でして、皆怖がって逃げるか門戸を閉ざしてしまったのです。それに道門のお偉方が大勢やられたって話で——」
「待ってくれ、旦那、それは一体どういうことだ?」
せきを切ったように語りだした男を俺は遮った。男の声に触発されてか、あたりの家々からもちらほらと人の動く気配がする。男は深いため息をつくと、
「連中、日が暮れたあとにいきなり大勢で来たと思ったら、まっすぐ
と言ってぶるりと体を震わせた。俺は山の方を見た——朝の光の中、白煙がゆらゆらと立ち上っているのがうっすら見える。一方楚碧は眉間にしわを寄せ、目を糸のように細めて山を見ていたが、ついに煙は見えなかったらしい。諦めたように目頭を揉むと、
「その連中というのは?姿は見たのですか?」
と尋ねた。
「ええ、見ましたとも……黒ずくめのおかしな連中でしたよ。誓ってもいいですが、ありゃただのゴロツキはわけが違いますぜ。そうでなきゃ、山が焼かれるなんてことがありますか」
男がブルリと身を震わせる。俺たちは顔を見合わせた。とにかくここは、太極道門に急いだほうがよさそうだ——そう決めた俺たちは男に礼を言って、道悟山に向けて出発した。軽功も使って急ぐこと数刻、ようやくたどり着いた山頂にあったのは、見るも無残に焼け落ちた太極道門の門だった。
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