〈他家紹介19〉

ポルトガル


 家じゃ無いけれど。

 大航海時代初期にスペインと覇権を争った過去の大国。

 古くはコア渓谷の旧石器時代の動物壁画(世界遺産)がある。イベリア人が居住していたところにケルト人が侵入。その後はカルタゴの植民地となり、第二次ポエニ戦争でローマが勝ってからはローマの属州となる。ローマが衰退するとゲルマン人により分裂するが、641年に西ゴートがイベリア半島を統一する。しかし西ゴートは内紛が止まず711年ウマイヤ朝に滅ぼされ、ポルトガルもイスラム圏となった。

 西ゴートの貴族ペラーヨがイベリア半島の北西部に逃げ込みアストゥリアス王国を建国。ウマイヤ朝に迫られるが722年のコバトンガの戦い、721年のトゥールーズの戦いに負けた腹いせに小規模な反乱勢力とされていたアストゥリアス王国を攻撃したが、地形を上手く使った待ち伏せでウマイヤ朝司令官アル・クアマを討ち取り勝利したことをきっかけにレコンキスタが開始される。

 レコンキスタが始まってからポルトゥカーレ伯となったブルゴーニュ公子の末子であるエンリケ・デ・ボルゴーニャがコインブラ伯領を吸収する。エンリケ伯の息子アフォンソは1139年にオウリケ(ポルトガル南部)の戦いでムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗るようになる。

 カスティーリャ=レオン王国(当時のアフォンソ7世は皇帝号を使用していた)から独立を勝ち取るために戦う。1143年にレコンキスタを優先するローマ教皇はカスティーリャ=レオン王国への軍事援助を条件に独立を承認される。しかし1145年にカスティーリャ=レオン王国をすっ飛ばしてローマ教会に封建的従属を行うという為の申し入れ(完全なるポルトガル独立の要求)をしたがローマ教皇に袖にされる。

 1147年にリスボンの北東65kmに位置するサンタレンを制圧し名声を高めると丁度イギリスからやってきた第2回十字軍と連合して2万の兵力でリスボン攻略戦を行い4ヶ月弱の後にムーア人を追い出すことに成功し、ほぼ意味の無かった第2回十字軍の数少ない戦功となった。

 1157年にカスティーリャ=レオン王国のアフォンソ7世が没するとカスティーリャ=レオン王国が分裂したため臣従の義務が無くなったポルトガルのレコンキスタは加速する。1249年、イベリア半島西岸において残っていたイスラム拠点であるファロを攻略したことでポルトガルのレコンキスタは完了した。

 レコンキスタ完了後の1255年にリスボンへ遷都を行い、1279年にカスティーリャと国境確定させ14世紀にボルゴーニャ朝の最盛期を迎えるが、黒死病の影響や百年戦争の影響で親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化。イングランドの助けを借りて反カスティーリャ派が勝利しアヴィス朝へと移行する。

 欧州でいち早く絶対王制を敷いたアヴィス朝は1415年にアフリカのセウタを攻略したことを皮切りに大航海時代へと突入する。エンリケ航海王子を中心として海外進出を積極的に行い、西アフリカ沿岸を制圧しつつ1488年バルトロメウ・ディアスがはじめて喜望峰に到達した。

 1494年にトルデシリャス条約でスペインとの植民地分割を決めた後に、1498年にバスコ・ダ・ガマがインドに到達し、一方で1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを発見して植民地をとしている。

 ブラジルにはサトウキビと奴隷を持ち込んでポルトガルの富の源泉となった。またインド洋ではディーウ沖の海戦でアジア交易を牛耳るオスマンとヴェネチアの支援を受けたマムルーク朝とクジャラート・スルタン朝の艦隊を打ち破りインド洋の制海権を確保したことで、マラッカ、マカオと東進する事が出来るようになる。1557年にはポルトガル艦隊総司令官のレオネル・デ・ソウザが海賊退治に協力した褒美としてマカオの所有権を得る。しかしこの頃からポルトガルの国力を超えた領土拡張とインド洋の香辛料交易の衰退によりポルトガルはその国力を衰微させていく。

 極めつけは1578年にモロッコ制圧を目論んだポルトガル王セヴァスティアン1世が戦死したことでアヴィス朝が崩壊し、スペインに同君連合と言う建前で吸収合併された。

 スペインによる抑圧に対して1640年に王政復古を宣言し、イングランドの助けを借りて1668年、三十年戦争で疲弊したスペインに打ち勝つことに成功した。

 ちなみにポルトガルがスペインになっている間の1624年、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)はポルトガル領ブラジルに侵入しサルヴァドールを制圧してオランダ領ブラジルとする。これを危険視したポルトガルはブラジルを公国とし、ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになり、1654年オランダは撤退した。賠償の代わりにアンゴラを手に入れる(ポルトガル領アンゴラの始まり)。コンゴ王国を滅ぼしモザンビークの支配権を強化する。

 なおイベリア半島では落ち着いたスペインとの戦争ではあるが、南米に於いては絶賛行われていた。1696年に逃亡奴隷による国であるキロンボ・ドス・パルマーレスを制圧して支配を安定したものとし、スペインとの間でアマゾンとバンダオリエンタル(現ウルグアイ周辺)を交換して停戦し概ね現在のブラジルの国境線となった。

 18世紀になると産業基盤が脆弱なポルトガルはブラジルの開発と中立政策により繁栄を保とうとするも国際的にはイギリスに対して経済的従属関係となり、国内的には絶対王制に伴う富の偏在が顕著な物となっていく。

 近代化の転機となったのは1755年のリスボン地震で、ポンバル侯爵がリスボンの町の再建とポルトガルの産業化植民地経営の徹底にイエズス会の追放などを行った事による。

 ナポレオン戦争が始まるとポルトガルも親英派、親仏派が対立しているところでジュノー将軍率いるフランス軍が攻めてくるとポルトガル王はブラジルに逃げ出して、リオデジャネイロが正式なポルトガルの首都となる。ナポレオン戦争後はイギリスの軍政下に置かれていたが民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、イギリス軍は放逐された。翌1821年に憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。

 ジョアン6世が帰国すると、ブラジルの独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争にて1822年、ポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。これによりポルトガルはその富の源泉を失い、さらに継承問題から内戦が勃発した。結果として二大政党制ではあるものの君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。

 大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進んでいなかったこともあり、若年者らはポルトガルを捨て他の欧州国家やブラジル、あるいはポルトガル領アフリカに脱出するようになる。

 1910年に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。

 1911年に急進的な憲法が制定され王党派を排除したが、その後幾度となくクーデターと内閣崩壊を繰り返しつつも二度の大戦をなんとか乗り切る。

 第二次世界大戦後はNATOに加盟するなどして1950年代には経済的安定を獲得する。しかし1960年代に入るとまず1961年に勃発したアンゴラ独立戦争を皮切りに、1962年にインドのゴア侵攻によりポルトガル領インドを喪失。1963年にはギニアビサウが、1964年にはモザンビークが独立戦争をおこす。

 こうした泥沼の植民地戦争にたいして当時のサラザール政権は弾圧を強めたが1968年にサラザール首相が倒れると、後継のマルセラ・カエターノ首相(何度見てもフフってなりますね)は植民地戦争の継続と反政権運動への弾圧を継続したため、国軍が反乱を起こし無血革命であるカーネーション革命にて打倒する。その後は一時的に急進的社会主義に振れたものの概ね中道的な政策を推進している様子。

 なお海外植民地は1975年に東ティモールがインドネシアに侵攻されて喪失。1999年にマカオを中華人民共和国に返還したことで全ての海外領土を喪失し500年以上続いた植民地帝国は21世紀を迎えること無く終焉した。


 ちなみに奴隷貿易で悪名高いポルトガルではあるが、戦国時代の日本においても人買いはしていた。といっても当時の日本は人身永代売買が横行していたこと、江戸時代になって漸く年季奉公が一般的になった様な状況であった。そんな中でポルトガルは一応年季奉公人として買っていたらしい。また戦乱による貧困で自ら望んで奴隷になったものも居たらしい。

 なお年季奉公人として日本人を買うもマカオに着くなり勝手に労働契約を破棄して日本人は逃げ出してしまうので結果的に日本人奴隷を買わなくなっていったという。

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