〈他家紹介8〉〈宗派紹介8〉
〈他家紹介〉
伊達氏
言わずとしれた東北地方を代表する大名の一つ。出自は藤原氏魚名流山陰朝宗が源頼朝の奥州征伐に子供らを従軍させ、その功により伊達郡を受領し伊達氏を名乗ったことが始まりとされる。他に但馬や備中でも地頭職をえている。
南北朝時代の伊達行朝の代では南朝方に属し戦っていたが、常陸伊佐城の戦いで高師冬(こうのもろふゆ)に敗れ、傍系の但馬伊達氏は処罰された。伊達宗遠の代に北朝に鞍替えし、出羽の長井氏を滅ぼした。伊達宗遠の子、伊達政宗(初代)の時代に鎌倉公方から領土の割譲を迫られると鎌倉公方や蘆名満盛らと争う。
その後奥羽が鎌倉府から分離され奥州探題の配下に組み込まれ、室町と鎌倉の対立から南朝方であったはずの伊達氏は有耶無耶のまま幕府に近づく。文明15年に伊達成宗が足利義政らに金三百八十両や馬などを献上するなど積極的に幕府と接触を持っていた。そして伊達稙宗の代になるとついに陸奥国守護職を得て奥州探題大崎氏と力関係が逆転する。
陸奥国守護職を得た稙宗は奥州探題大崎氏や羽州探題最上氏を勢力下におさめて、伊達氏が拡大する基礎を築き上げた。しかしこのような稙宗の動きに嫡男であった晴宗が反発。伊達実元を上杉家に送り込もうとしたところで天文の乱が発生。最終的に伊達実元の上杉家入嗣(にゅうし)はなくなったが、6年間の内乱で伊達氏の勢力は衰弱し、勢力下に置いた最上氏、相馬氏、蘆名氏が独立。また天文の乱後も5年ほど反晴宗の武将らの鎮圧にかかり伊達氏の衰退期となっていた。
しかし二代目伊達政宗、一般的に我々が認識している独眼竜政宗が登場すると、拡張政策となり蘆名を滅ぼし114万石の大大名となるが、すでに秀吉が惣無事令を出した後であったため蘆名から奪った会津は没収され、さらに大崎葛西の乱を扇動した咎で国替えされ現在の宮城県を中心とした58万石に押し込まれる。その後は関ヶ原の戦いで東軍に属して62万石まで加増された。
江戸時代になると北上川の改修、貞山運河の掘削工事で低地帯の排水性が改善。内高100万石を超えていたと言われる。また茶栽培なども奨励し石巻市などでは茶が栽培された。またサン・ファン・バウティスタ号を建造しスペインに使者を送るなどもしていた。
維新期には佐幕派として新政府に抗したため改易される。食い詰めた藩士らの一部は現伊達市の開墾に従事した。伊達武者まつりは伊達市に移住した藩士らが始めたまつり。
留守氏
藤原北家道兼(藤原道長の兄)流と称する伊沢家景を祖とする。
頼朝の奥州征伐後に奥州の留守職(主に民政を担当)として多賀国府に赴任したのが始まりとされる。北条執権政治となった後は留守職は形骸化していったらしい。
南北朝時代になるとはじめは南朝方として、後ほど北朝方に転向する。観応の擾乱では畠山高国について吉良貞家に大敗し、当主である留守家次が討ち取られ、国分氏に所領を切り取られてしまう。その後足利尊氏に所領安堵され吹き返すも、再び奥州探題を争う畠山氏と吉良氏の争いに巻き込まれ敗北し、大崎氏の配下に降った。
その後も家中が乱れ、最終的に伊達を頼った留守持家が伊達持宗の子である留守郡宗を跡継ぎに迎え入れ伊達の勢力下に組み込まれた。
留守氏にとって最大の敵は国分氏であり、天文の乱では特に上杉家への伊達実元の入嗣には反対していないが、稙宗側に付いた国分氏に対抗するため晴宗側についている。
留守政景の時代には伊達政宗を支えて大崎合戦や関ケ原合戦時の上杉氏の最上侵攻に対応し家康の天下取りを支援した形となる。
こうした留守政景に対する伊達政宗の信頼は篤く、一関城を与えられ水沢伊達氏として伊達氏一門衆として江戸時代を過ごす。明治維新後は帰農を命じられた藩士たちは札幌郡に移住し、現札幌市豊平区平岸となる平岸村を開墾した。
〈宗派紹介〉
日蓮宗
鎌倉仏教の一つで身延山久遠寺を総本山とする宗派で在世の衆生ではなく滅度した衆生の救済を目的としている。
日蓮は元々天台宗で修行し、得度している。得度した後に延暦寺、園城寺、高野山に遊学し、比叡山で阿闍梨となっている。遊学の結果、法華経こそが最勝の法典であると考えるにいたる。法然の唱える称名念仏をことさらに批判する。そのような攻撃性の高い日蓮であったため、鎌倉幕府によって何度か流罪にされている。
日蓮が身延山に入山したのは文永11年(1274年)のこと。入山後は門下生以外との面会を拒絶していたという。
日蓮没後、徐々に日本各地に拡散浸透していった。しかし比叡山の要請もあり京では度々追い出されることとなったが、徐々に浸透していき室町幕府や朝廷にも接近したた。また本圀寺を中心に町衆へも浸透して一大勢力となっていた。天文元年、一向一揆が入洛するという噂が流れ、細川晴元や六角定頼らに加わって一向一揆と戦った。この戦いで山科本願寺を焼き討ちし、京の警衛を任されるようになるなど自治権を得ており、法華一揆(一揆とは協力関係のこと)と呼ばれた。
そのような情勢下で上総から上洛した松本久吉と比叡山西塔の僧侶である華王房が問答を行い、松本久吉が問答に勝ち、華王房の袈裟を公衆の面前で剥ぎ取る事件が起きた。
この延暦寺の僧侶が日蓮宗の一般衆徒に問答で負けたという噂はあっという間に広まり、泥を塗られた比叡山は緊急会合を行う。結果、朝廷に奏達し、幕府にも日蓮宗が「法華宗」を名乗るのを禁じるよう申し入れを行った。しかし後醍醐天皇の勅許を持ってして日蓮宗の勝訴となったため、事ここに至って比叡山は日蓮宗を襲うことを決断する。
まずは僧兵を動員して日蓮宗末寺に上納金を治めるよう、説明に回り、断られると朝廷や幕府に日蓮宗討伐許可を求め、敵対関係にあった寺門や本願寺、東寺(真言宗)などにも協力を依頼するが、三井寺や六角定頼以外からは中立の約束を得るにとどまった。
日蓮宗以外の敵がとりあえず黙るってくれることになったため、比叡山は三井寺と六角定頼の援軍などを含め、一説に15万とも言われる兵を繰り出し、京にある日蓮宗寺院、兵数2万に対し攻撃を開始する。この戦いで本圀寺を含めたすべての在京日蓮宗寺院が焼け落ち、日蓮衆徒は最大1万人が死んだとされる。そしてこの火災に巻き込まれて京の街の三分の一が灰燼に帰すこととなる。ちなみに火災の規模で言えば応仁の乱を上回ったとされる。
この結果京の日蓮宗は壊滅し、追放されその多くは堺に流れた。六年後の一五四二年になると六角定頼の和議斡旋が始まり、一五四七年延暦寺と日蓮宗の間で和解が成立。本圀寺もその年に再建されている。
ちなみに日蓮正宗系統の創価学会や顕正会などは今日の日蓮宗(一致派)とは別系統の勝劣派の流れとなっている。分裂したのは明治時代。
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