〈他家紹介②〉〈宗派紹介②〉
分量が多くなったので分割
〈他家紹介②〉
斯波氏:
元は鎌倉時代の御家人足利泰氏から分派した足利庶流。足利泰氏の長男、家氏が斯波郡(しわぐん)を与えられたことに始まる。ちなみに九州探題の渋川氏は家氏の弟である足利兼氏から。
有力御家人である斯波家氏は尾張守に任命され、足利尾張家とも呼ばれた。息子の宗家が斯波郡と大崎荘を継ぎ、斯波氏あるいは大崎氏とも称した。
子孫である斯波高経は、足利尊氏の股肱の臣として越前など北陸を担当し、新田義貞の討伐などを行った。
南北朝時代に上洛する北畠顕家の軍を止めるため、兵を起こすが勢いは止められず鎌倉まで追いかけたりした。上洛から帰ってきた北畠顕家を鎌倉で迎え撃ったが、名将北畠顕家を止めることはできず当時の当主、斯波家長が自殺したとされる。
斯波家長の子供である斯波詮経が高水寺斯波氏の祖になったという。その後は史料に乏しくはっきりしない。足利将軍家に連なる名門として君臨していたようだ。少なくとも稗貫氏を含む和賀一族の騒乱では南部氏に命じて騒乱を鎮静化している。応仁の乱が始まると将軍家の威信が低下し、それに伴い三戸南部の伸長などが見られるようになる。
斯波詮高の代には稗貫氏、和賀氏と協同し三戸南部と抗争を繰り返し、雫石を得るなどしたが、年を下るに連れ南部氏に押され、また家中不和などがあり1588年(天正16年)高水寺城が落ち、斯波詮直は城を脱出し亡命する。南部利直の臣下となるが大坂の陣の際に南部を離れ、二条家に仕える。
本作では遠野合戦で斯波詮高が討ち死にする。雪解けには阿曽沼に対し捲土重来を期さんとしている。
稗貫氏:
もともと伊達の庶流と言われていたが、中条氏を祖とするとされる。中条氏は武蔵七党の一角である横山党(現八王子周辺を支配)の流れをくむ。
直接の祖先である中条藤次家長は鎌倉幕府評定衆に登用され、さらには出羽守に補任された。経緯は不明だが稗貫郡の地頭職を得、小瀬川城を拠点にした。
南北朝では斯波氏に付き、根城南部の攻撃を受ける。栗屋河合戦で当主が討ち死にするなど壊滅的打撃を受ける。その後は奥州探題大崎氏に与する。そのほか和賀氏の内乱に煤孫側として参戦。斯波の命を受けた南部守行に当時の本城である瀬川城を包囲され和賀と和解する。
最終的に小田原征伐に参加しなかったことで、奥州仕置により改易される。和賀・稗貫一揆を起こすが敗北し断絶する。
和賀氏:
出自はよくわかっていない。和賀氏の一支流である鬼柳氏が遺した、「鬼柳文書」によると稗貫と同じく武蔵七党の一角である横山党中条氏の流れであるとされる。一方で、「奥南落穂集」では多田源氏を祖とするとある。鬼柳文書は鎌倉期から戦国期に書かれ、鎌倉幕府の裁判で使用されたと思われる書状もあるのに対して、奥南落穂集は元禄15年(1702年)頃に南部藩が記した物である。このためおそらく横山党の流れが正しいのではないかと思われる。中条家長が稗貫郡の地頭となり、その弟である中条義季が刈田郡(宮城県)の所領を得る。さらに義季の長男義行が和賀郡惣領として和賀郡に下向し、和賀氏と称したとされる。
永享7年(1475年)に始まる和賀の大乱で惣領家と庶流の須々孫氏、黒沢尻氏の内乱に斯波(南部)・大崎・葛西を巻き込む大戦となる。この結果、和賀惣領家が勝つものの加美郡などの飛び地を放棄することなり、以後凋落していく。
戦国時代を生き延びたかに見えた和賀氏であったが、小田原征伐に参陣しなかったため改易される。これに対し和賀・稗貫一揆を天正18年(1590年)に起こすも奥州再仕置軍に敗北。当時の当主、和賀義忠は落ち武者狩りにあい落命。和賀領は稗貫領とともに南部領となる。これに対し逆恨みした義忠の子、忠親は慶長5年(1600年)岩崎一揆を起こすも敗北。忠親は陸奥国分尼寺(仙台市)に落ち延びるが、ここで伊達政宗に暗殺される。ちなみにこの一揆を重く見た徳川家康は、伊達政宗へ贈った「百万石のお墨付き」を反故にしている。
なお和賀氏の系統としては仙北郡を支配した庶流の本堂氏がある。本堂氏は和賀惣領家と異なり時流を読むのに長け、小田原征伐に参戦し所領を安堵され、関ヶ原の戦いでは東軍について八千石の大身旗本となる。戊辰戦争では新政府について明治時代に男爵となっている。
〈宗派紹介②〉
比叡山延暦寺(山門):
言わずと知れた伝教大師最澄が建立した天台宗の総本山。開山は延暦7年(788年)とされる。桓武天皇などの後援もあり徐々に栄えていく。
最澄ははじめ東大寺などで法華経を学ぶが、何らかの理由で比叡山にほこらを建てる。延暦21年(802年)に遣唐使船で天台山に赴き、天台宗を学ぶ。また龍興寺で密教や禅を学び、延暦24年(805年)に帰国し天台宗を開いた。こうして当時最先端の学問所となり、法然などの教科書でおなじみの僧を数多く輩出することとなる。
しかしこのように勢力が大きくなると声も大きくなるもので、大きくなった声を認めさせるために強訴を行うようになっていく。「山門」である比叡山は事あるごとに神輿を担いで京の街にでては御所を神輿で塞ぐなど政治に悪影響を及ぼすこととなる。平安末期には白河法皇をして、「賀茂の水、双六の賽、山法師」がままならないものとして嘆いている。
そんなやりたい放題であった比叡山延暦寺には当然ながら反発も大きく、ついに永享5年(1433年)時の6代将軍足利義教の手により1回目の比叡山焼き討ちが起きる。このとき将軍足利義教は延暦寺を包囲し、山門の降伏を認めてるが、使節の首を切ったために抗議のため延暦寺側が火をつけ、山徒二十四人が焼身自殺した。
2回目は明応8年(1499年)に起きる。この際は管領の細川政元が明応の政変で追い出した足利義稙を延暦寺が支持したため細川政元の命によりことごとく焼き尽くされた。
3回目は皆さんご存じの信長による焼き討ち。こちらは元亀2年(1571年)に起きた。この原因は信長が比叡山の寺領を没収したため。信長包囲網により浅井朝倉連合軍に、三好三人衆や六角義賢、さらには本願寺などが信長と対峙していた。この当時の比叡山は一種の要塞とかしており、数万の兵が入れる坊舎を備え、浅井朝倉連合軍に兵を支援する、信長から寺領の返還の申し出を蹴るなど、完全に信長と敵対状態になっていた。佐和山城を落とし、姉川の戦いで勝利し、近江一向一揆を撃退した信長が比叡山の足下、坂本や三井寺に進軍。漸く比叡山側は使節を派遣したが、信長はすでに比叡山を徹底的に破却する覚悟を決めており遅きに失した。元亀2年9月12日に坂本、堅田への焼き討ちに始まり、日吉神社から比叡山にかけて徹底的に焼き付くし、僧は小僧といえどかまわず根切りとされた。
この3度目の焼き討ちで少なくとも1500人以上が殺されている。逃げ延びたものは武田信玄などを頼って復興を企図したが、信玄の病没により果たせず。実際に山門が復興するのは信長の死後、秀吉によってなる。
江戸時代になると5000石の寺領が許されるが、江戸時代を通じて日吉神社と対立する。維新後、神仏分離令に際しては鎮守社である日吉神社が嬉々として仏具を破壊するなど、全国に先駆けた大々的な廃仏毀釈を行い、全国に波及していくこととなる。
長等山園城寺(寺門、三井寺):
こちらは山門の延暦寺と対となる寺門、園城寺(おんじょうじ)。比叡山延暦寺に比べると知名度は落ちるが、延暦寺と度々抗争して燃えまくった寺。
大津市にある天台寺門宗の総本山。3代天台座主円仁と5代天台座主円珍の勢力争いにより比叡山に残った円仁派が山門、山を降りた円珍派が寺門となる。円珍派が山降りるきっかけになったのは、円仁派の赤山禅院(せきざんぜんいん)を襲った事に対し、円仁派が円珍派の堂舎を打ち壊し追放されたことによる。
初めから仲が悪い山門寺門ですが、基本的に燃やされるのは寺門。最初の焼き討ちは永保元年(1081年)、続いて保安元年(1120年)、保延元年(1140年)など大規模なものは10回ほどあった。
比叡山延暦寺と敵対していたため、織田信長とは関係が良好で、本能寺の変で明智光秀の首検めはこの園城寺でなされた。秀吉とも仲が良かったが、理由不明ながら突然勘気を被り、廃寺となっている。このとき園城寺金堂が比叡山に移設され、転法輪堂として残っている。秀吉が死ぬ直前に園城寺は許され、復活している。一説には仏罰を恐れたためという。
戦国時代に寺社勢力が削ぎ落とされた結果、江戸時代はそこそこ平穏に暮らしていた。しかし明治維新を迎えると北院の土地を没収され、歩兵第9連隊司令部となり、現在は大津商業高等学校や皇子山運動公園となっている。
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