第百四十話 筆算

 そこそこ順調に研究開発が進んでいたようで何より。母屋をでて離れに入る。こちらは学問所になっており、小菊がいるはずだ。


「邪魔するぞ」


 草履が三足揃えられており、人が居るのがわかる。足を洗い、土間を上がる。

戸板を開けると小菊と大宮夫妻がいた。


「あら、若様お越しになってたのですね」


「すまんな声をかけたが返事が無かったので勝手に上がらせて貰った」


「こちらこそお迎えに上がらず申し訳ございません」


「先触れもなく来たのはこちらだから気にせずともよい。ところで、大宮様がお越しと言うことは、数学の話か?」


「うむ。我らが上洛しておった間に、一通り和文の訳し終えたそうだったのでな。添削しておったんや」


 結構な分量だと思ったが、すっかり仕上がっていたか。これでいくらか教育に用いやすくなったな。


「拝見しても?」


 大宮様から九章算術の訳文を受け取り読んでいく。

 算木を使った計算方法などが記されている。前世では馴染みが無いので扱いづらい。ただ、面積の求め方はなかなか有用な内容だ。


「なかなかおもしろいですな。この算木というのは扱いに慣れるまで面倒な印象ですが」


「せやけどな、これやと細かく計算できるんや」


「なるほど。ところでこのような計算の仕方は如何でしょうか」


 筆算を披露してみる。


「ほう」


「乗算はこうですが、除算だとこうしてみれば……」


「ほお、さすがは神童といわれるわけありますな」


 ついでに漢数字だとアラビア数字を書いてみる。


「これは?」


「これは某が考えた、筆でも書きやすい数字でございます」


 普通のアラビア数字ですけど、漢数字よりは多少書きやすいかな。


「ふむ、面白いことを考えるのぅ。○は零のことか?」


「左様でございます」


「ふむ、開元占経にも同じような○がしるされておったの」


「そうなのですか?」


「なんやそなた知らずに使ってたんか。まあええわ。算木を持ち歩くよりは楽やしこの筆算で計算するのもええやろ」


 これで一つ数字と計算方法が前世にあわせられた。計算はなるべく簡単にできないとね。


「ところで、奥方様は何故、ここに?」


「そら殿が若いおなごにうつつを抜かしてると聞きましたからなぁ。一体どんな娘かと思って来てみましてん。そしたらなにか難しい話ばかりしてたから退屈してましたんや」


 なんとまあ確かに若いというか幼い女の子だが、やってるのは学問だからなあ。それに小菊は弥太郎に好意を寄せているので大宮様になびくこともなさそうだが、人の心は移ろいやすいからな。万が一ということがあるかもしれないな。


 九章算術の和訳が終了したので開元占経を訳していくそうだ。こちらは元はインドの書で中国に零の概念をもたらした書物だそうだ。こちらはインド数字や計算方法が書かれている。


「あれ、筆算が書かれている。数字らしきものは見覚えのないものですが」


「そなたほんまにこの書を読んでおらんのか?」


「ええ、こちらはしっかり読んでいなかったもので」


 この書で筆算が導入されたはずなのになんで普及しなかったのだろう。


「明では算木がすでにあったからの。わざわざ新たに取り入れる必要もなかったのだろう」


 大宮様が解説してくれる。なるほど、すでに優れた計算方法があったから新しい計算法は必要なかったということか。ということは算木での計算は結構合理的ということなんだな。個人的に筆算に慣れてしまっているのと、算木を持ち歩かなくてすむので筆算を普及させるつもりだけどね。

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