そして彼は葛藤する。

「そんじゃね、送ってくれてありがと!」

「いや、このくらい当たり前だ」

「だけど、お隣なのに大げさだよ」

「いや、大げさじゃない。最近じゃ、目と鼻の先でも何があるか分からないんだぜ?」

 うまい晩飯(結局、白ご飯を3杯もお代わりしてしまった)の後、お前を家まで送り届ける。

「俺のほうこそサンキュ。うまかった、本当」

「へへ、その言葉が一番嬉しいな」

 芙美の家の前で、柔らかい髪の毛をクシャクシャって風に撫でながら言ったら、コイツは本当に嬉しそうに笑うんだ。

 そこへ話し声を聞きつけたのか、芙美のオヤジさんが出てきた。

「お、涼介! いつも芙美が面倒をかけて済まないな」

「いや、俺の方こそ、芙美にはいつも」

 小さい頃からずっと「お隣さん」だったから、ほとんど家族とおんなじだ。太った体を重そうに揺すって、親父さんは門までやってくる。

「いやいや、近頃はいつも、家で涼介の話ばかり聞かされてるんだ。ははは」

「もう、お父さんったら!」

 まるで絵に描いた餅、じゃなくて絵に描いたような幸せな家庭の図だ。

「こいつの作る料理、美味いだろう。私もつい食べ過ぎてほら、こんなになってしまったんだ、はっはっは」

 と、親父さんは腹を叩いた。なんだかものすごくいい音がして、その瞬間、思わずぎくっとした。

 ひょっとして今のオヤジさん、俺の何十年後かの姿なんじゃないだろうか。いや、もう既にその兆候は出始めてるかもしれない。

「いやだお父さんたら。涼君は、いくら食べてもお父さんみたいにはならないよーだ、ねえ?」

「あ、ああ、いや、その、うん…」

 突然話を振られて、俺はしどろもどろの答えを返した。

「いやいや、油断するなよ。私みたいにわき腹に肉がついたら、もうそれ以降は、開き直って太るしかないからね」

 オヤジさんは豪快に笑って言ったけど…俺、思わず固まった。何て現実味がある言葉なんだろう。

「じゃあ俺、戻る。また明日な」

「うん。戸締りとか気をつけてね。ほんと、ありがと」

「芙美をよろしく頼むよ」

「もー、だからそれはいいって言ってるでしょ!」

 オヤジさんと芙美とのやりとりに、思わず微笑んで、俺も手を振った。

 …俺のほうこそ、貴重なアドバイスと現実をありがとうと言いたかったんだ。

 自分ん家の玄関のドアノブへ手をかけて、

「え、どっこらしょ」

 ちょっとした段になってるところで、ついそんな掛け声が出た。

(ヤバい。もう息が切れてる)

 内心、俺はめちゃくちゃ焦ってた。坂道を登るのにもなんだか息が切れるって思ってたのに、メシ食っただけでも息が切れるなんて…。

 時間はどんどん過ぎていく。撮影は明後日に迫ってる。

『1キロは痩せて来てよねっ!』

 そこで聖護院センセイのあのカマ声がまた頭の中でこだまして、俺は思わず自分の腹へ視線を落とした…こんな調子で「食わせられて」痩せられるんだろうか、俺。

(食ったばかりでちょっと辛いけど)

 ゲフ、なんていうオクビまで出て、俺は思わずため息をついた。フロに入って寝る前に、家の周りを一周くらい走るのもいいかもしれない。そうしたら、ちょっとは痩せるかも。


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