第50話 紫陽花の祠の神様ではない
「終わったのかな?」
兄シンが不安そうに声を出す。皇族は神々を感じるが、巫女ほど敏感ではない。頭を上げる許可を与えずに消えた狗神に無礼がないよう、確認したのだろう。
隣でへたり込んだヒスイは、大きく息を吐き出した。
「リンといると、人生は波乱万丈ね。まさか神様を呼び出すとは思わなかったわ」
「ヒスイ姉様のお陰で、短い時間でお呼びできてよかったわ。帰ってお迎えの準備をしなくちゃ」
「そうだね、神様をお待たせしてはいけない」
シンの一言で、ヒスイが手を差し伸べる。踊ったアイリーンへの感謝を口にする民に手を振り、三人で牛車に乗り込んだ。以前の牛車に御者はいなかったが、舗装が改善したことで速度が上がる。スムーズに進む牛車は長距離を進めるようになった。
一緒に歩く牛飼いの方が疲れて歩けなくなる事例が多発した。大巫女メノウの功績による、まさかの弊害だった。そこで牛車は改良される。近距離は牛飼いが引いて歩き、遠距離用は専用の御者台が作られた。車輪の改良も行われたので、歴史に残る偉業として名を遺したのだ。
皇族が乗る牛車も御者がおり、他に護衛が周囲を歩いた。これで遠距離移動となれば、引っ越し並みの荷車や護衛の牛車も同行する。今回は御者が護衛を兼ねており、迅速な移動が可能となった。
ごとごと揺られる牛車で、アイリーンは姉ヒスイの足を揉み始める。一緒に踊ってもらった感謝のつもりだが、ある程度揉んだところで交代となった。逆に申し訳ないことをしたわ、アイリーンはお礼と謝罪を一緒に口にする。
「こういう場合はお礼だけでいいの」
ヒスイにくすくす笑われ、ココが「やれやれ」と呆れ顔になる。その向かいで、シンだけが険しい顔をしていた。
「どうしたの? シン兄様」
「さきほどの神様は、紫陽花の祠の神様ではないね」
場所により祀られる神様は決まっている。紫陽花の祠には、蛇神様が祀られていた。白い鱗が美しい、とても優しい神様だ。
「そうね」
また考えたシンだが、屋敷に牛車が到着する前にごろんと寝転んだ。行儀悪い所作は珍しく、具合でも悪いのかと心配になった。
「シン兄様、どこか痛いの?」
「いや……神様の考えを僕が悩んだって、絶対に届かないと思ってね」
諦めたんだ。そう言い切る兄に、アイリーンは申し訳ない気持ちになった。神様を呼び出せるのは限られた巫女で、応えてくれるかは神様次第。白蛇様の祠で、狗神様が出てきた。一般的にあり得ない。だから悩ませてしまったようだ。
「白蛇神様に頼まれたの。狗神様を開放してほしいって」
先日白状させられた話でも、重要な部分を一部隠していた。狗神が纏う瘴気についてだ。封印を解いてしまったが、瘴気と封じていた神様が飛び出した――兄姉はそう受け止めた。誤解と気づきながら、アイリーンは訂正しない。
狗神様が瘴気の元だと知ったら、人々の懸念や不安が狗神へ向かってしまう。それは神々もアイリーンも望まない結果だから。
「大丈夫なの?」
「ええ、お呼びする権利を頂いたから頑張るわ」
アイリーンはそう言って、明るく笑った。
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