第3話 あ〜あ、逃げられちゃった

 ぶわっと生き物のように水が空中に盛り上がり、表面張力の限界を超えて縁から溢れ出た。追いかけてくる水から必死で逃げる。


 足は速い方だけど、今は素足だ。下生えの草に傷付けられた肌が、ちりちりと抗議の痛みを伝えてきた。何かが刺さったかも。


「いたっ」


『早よ逃げろ、われるぞ』


「いったい、何が……」


 来るってのよ。そうぼやいて振り返ったアイリーンの顔が青ざめた。


 まずい、あれはちょっと勝てない。いやフル装備ならやれるかもしれないが、今は勝てる気がしなかった。ドレスのフリルの影に隠したお札を全部撒いても、絶対にやられる。手数てかずが足りない。


 無言でぐりんと顔を前に向け、全力で走った。足の裏にまた何かが刺さって痛いし、血も出てるけどそんなこと嘆いてる場合じゃないわ。痛いのは生きてる証拠よ。アイリーンは大声で叫んだ。


「何あれぇ!!」


『封印されてた禍狗まがいぬだよ。早くっ! 喰われてしまう』


 ようやく口調の戻った小狐が肩に飛び乗る。応援してくれるのは助かるわ。契約した小狐の力を借りられるのは、接しているときだけ。ココを乗せたアイリーンは禁足地きんそくちの端まで駆けた。そこで振り返ると、水は大きな犬となって追ってくる。


「どうしたらいい?」


『まだ出られないはず! 封じ直す時間も準備もないし、一時的に弾いて飛ばすしか……ひっ』


 ココの声が引き攣った。巨大な犬は流れ出た水を利用してさらに体積を増やしていく。


 押しつぶされてしまう。そう感じた瞬間、アイリーンは覚悟を決めた。この化け物を禁足地の外へ出せないわ。お兄様もお姉様も、侍女達も傷付けられてしまう。お父様の御世でこんな失態、末代までの恥よ。そもそも、私の所為だし……ね! 覚悟が決まれば、後はやり遂げるだけだ。


「やるしかないわ! ココ!」


 凛としたはらえの声が響いた。


「我らが偉大なる神々そせんの名を借り、る者に知らしめせ。滅、禁、破……すべての言霊ことだまを束ねて我が力と成せ――呪われしけがれは巫女へ届かず」


 キン、と耳が痛くなるほど強い霊力が周囲を満たした。呆れ顔のココが仕方ないねと呟く声に頷き、私は己の力を解放する。


「ふるえ、ゆらゆらとふるへ」


 今は手元に封じ札もない。巫女装束でもなかった。祓いとしての能力はあっても、半分以上は使えないも同然。それでも大切な人達を守りたいと願う気持ちだけで、九字くじを切り霊力を込める。


『もっと抑えて。器がもたないよ』


 調整役のココが苦しそうにしながらも、指示をくれた。その声に頷いたアイリーンは、舞い上がる髪に霊力を流していく。青い髪は濃色の根本から毛先へとグラデーションがかかっていた。霊力を込めるたびに色が抜けて銀色に輝く。瞳に力を込めて睨みつけた。きっと目の色も変化しているはず。


ぜろっ!」


『あ、それダメ』


 叫んだココの忠告は間に合わず、水の化生けしょうとなった狗は飛び散った。派手に水をぶちまけたおかげで、足元を掬われて転がる。流されながら、禁足地の柵に寄りかかった。アイリーンの全身はびしょ濡れである。


「ココ、遅い!」


 もっと早く言ってよ。上から下まで濡れたじゃない! 文句を言うアイリーンをよそに、小狐は濡れた尻尾でぺしりと主人の頭を叩いた。


『あ~あ、逃げられちゃった』


 悔しそうに空を見上げるココの視線の先には、何も見えない。だけどアイリーンも気づいた。この場に立ち込めていた黒い気が消えている。


 禁足地の水底みなぞこに封じた魔物を解き放ってしまった……かも?


 青ざめたアイリーンに、小狐は冷たく言い放った。


『捕まえないと大変なことになるよ』

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